針葉樹園の紅茶

 瀬良田真冬は、植物園の奥にある小さな茶亭を気に入っている。

 温室や花壇から離れた針葉樹園の中にあり、客は少ない。

 木のベンチと丸い窓。メニューは紅茶、珈琲、焼き菓子だけだった。

 真冬は月曜の午後に行く。

 家では母と暮らし、職場では同僚と机を並べる。どちらでも「今日はどうだった」と訊かれる。

 茶亭の主人は、注文以外の質問をしない。

「紅茶、濃いめで」

「はい」

 その二言だけで、窓際席へ座れる。

 窓の外には、名前の札がついた針葉樹が並ぶ。

 真冬は札を読まない。

 杉、松、樅の違いも曖昧だ。ただ、風が吹くと葉の音が細く、樹脂の匂いが紅茶へ混じるのが好きだった。

 ある日、札を交換していた庭師が茶亭へ入ってきた。

 真冬の隣席へ座り、珈琲を頼む。

「木の名前、覚えました?」

 何度か見かけていたらしい。

「一つも」

「毎週来るのに」

「名前を覚えなくても、葉は見えます」

 庭師は少し笑った。

 庭師は新しい札へ、学名と和名を丁寧に書いていた。

「間違えないよう大変ですね」

「札は人間のためです。木は自分の名前を読まない」

「では私も読まなくていい?」

「迷子にならないなら」

 真冬は、自宅でも職場でも、何者かを説明する言葉を多く持っている。

 娘、社員、先輩、担当者。

 茶亭では、濃い紅茶を頼む客でしかない。

 木の名前を知らないことまで、欠点にならなかった。

 焼き菓子を一つ頼んだ。

 松の実入りの小さなクッキーで、噛むと香ばしく、バターの後に森のような味がした。

 庭師は席を立ち、また札の交換へ戻った。

 夕方、針葉樹園へ細い雨が降った。

 丸い窓へ雫がつき、外の木々が少し曖昧になる。

 主人は真冬の紅茶へ湯を足した。

「薄くなりますよ」

「今日は長くいるので」

 濃さが変わっても、同じカップだった。

 帰り道、真冬は一つだけ札を見た。

〈ヒマラヤスギ〉

 覚えるつもりはなかったが、次の週にはその木をすぐ見つけた。

 名前を知っても知らなくても、針葉樹園の樹脂と紅茶の香りは同じように迎えてくれる。

 茶亭は、自分へ札をつけずに座っていられる、森の中の小さな余白だった。