鍋焼きうどんの蓋
夷隅苑子は、向かいの老婦人から借りた土鍋で夕飯を作った。
一人用の小さな土鍋だ。三日前、苑子が入院すると聞いた老婦人が、「冷える夜に使いなさい」と持ってきた。明日の朝には家を出るから、今夜食べて返すつもりだった。
外では細い雪が降っている。苑子はだしを張り、うどん、鶏肉、白菜を順に入れた。最後に卵を落とし、蓋をする。土鍋の縁から白い蒸気が漏れた。
病院へ持っていく書類は玄関に揃えてある。医師から聞いた数字も、家族へ送った短い連絡も、もう今夜の仕事ではなかった。苑子は火を弱め、卵の黄身が固まりすぎない秒数だけ考えた。
蓋を開けると、湯気で眼鏡が曇った。食卓へ運び、鍋敷きの上で直接食べる。白菜は柔らかく、うどんは少し煮すぎていた。途中で窓の向こうに老婦人の台所の明かりがついた。
苑子は卵を最後まで崩さなかった。黄身をれんげへ載せ、だしと一緒に飲み込む。土鍋の底に残った汁も、両手で持ち上げて飲んだ。
食べ終えた鍋をすぐ水につけると割れる、と老婦人に言われている。苑子は手を膝へ置き、冷めるまで待った。部屋には時計の音と、雪が室外機へ当たる音だけがあった。
ぬるくなってから、たわしで内側を洗う。底の焦げはこすりすぎず、薄い跡のまま残した。布巾で拭き、蓋を載せる。持ち手の向きを本体と揃え、紙袋へ入れた。
土鍋の外側には、老婦人が貼った小さな紙が残っていた。「強火にしない」と震える字で書いてある。苑子は濡らさないよう紙だけ外し、新しい透明テープで貼り直した。紙袋の底には折った新聞紙を二枚敷き、鍋が歩くたび動かないよう左右へ布巾を詰める。返却のメモは書かなかった。空の鍋そのものが、食べ終えた返事になると思った。
苑子はコートを着ず、室内履きのまま廊下へ出た。袋の底を両手で支え、一歩ずつ運ぶ。向かいの扉の内側からテレビの音が聞こえ、呼び鈴へ伸ばした指を戻した。
向かいの玄関まで十歩だった。苑子は袋を扉の横へ置き、雪が入らないよう口を一度折った。