鍵盤の余韻
音楽祭の歓迎会が始まった午後七時半、別棟の練習室からピアノが聞こえた。演奏は七時三十五分まで続き、最後に低い和音で止まった。ところが七時四十五分、扉を開けると、名ピアニストの音羽崎嶺は床に倒れ、譜面台の金具で殴られて死んでいた。
容疑者は音響技師の榊森亜弓、競演者の鞍馬口玲、興行責任者の有明野壮。三人は七時二十分から歓迎会の壇上に並び、挨拶と乾杯を続けていた。練習室へは照明された中庭を横切って往復十分。歓迎会の客は窓越しに庭を見ていた。七時半すぎに嶺が弾いていたなら、誰にも殺せない。
嶺は開演前、榊森の録音改竄を告発すると言い、鞍馬口を公演から外し、有明野には契約金の返還を求めた。鞍馬口と有明野は六時四十分に練習室を離れた。榊森だけは録音確認のため六時五十五分まで嶺と残り、七時十分に会場へ来ている。
手掛かりは三つだけだった。第一に、七時半の演奏には第三十六小節の同じ誤音と、その直後の不自然な半秒の間があり、五時のリハーサル記録と完全に一致した。第二に、ピアノ椅子の濃い布地には人が座れば変わる毛並みが、六時台のまま整っていた。第三に、グランドピアノ内蔵の自動演奏装置へ、榊森の卓から五時の演奏データが送られていた。
聞こえたのは単なるスピーカー音ではない。自動装置が鍵盤とペダルを実際に動かすため、中庭からは本人の演奏と区別できなかった。同じ誤音も半秒の間も、演奏データにそのまま保存されていた。
「七時半に鍵盤を動かしたのは嶺さんの指ではありません」私は自動装置を停止した。「榊森さんは六時五十五分までに嶺さんを殺し、リハーサルの演奏データを七時半に再生するよう設定した。同じ誤音と間、乱れていない椅子、あなたの卓からの送信記録が証明しています。鞍馬口さんと有明野さんは真の犯行時刻にはすでに別棟にいた。音楽が続いていた五分間、演奏者はとうに沈黙していました。三人のアリバイを完成させたのは、人ではなく記憶された鍵盤の動きです」