鍵穴の一滴

「玄関の鍵、鳴かないようにして」

生駒栞は、恋人の頼みを聞き返した。

「鍵が鳴くって?」

「回すと、きゅって音するでしょ。夜、隣に聞こえるから」

恋人は自宅のソファに横たわり、玄関のほうを見た。病院から戻れたのは今日だけで、次にこの鍵を使うことはない。それでも気になるのは隣人への音らしい。

隣の部屋には、生まれたばかりの赤ん坊がいる。深夜に帰宅すると鍵の音で泣き出すことがあり、恋人はそのたび廊下で靴まで脱いで入った。栞は気にしすぎだと笑っていたが、昨日、隣人から「いつも静かにしてくれて」と小さな菓子折りを受け取った。

栞は何度も開け閉めしているのに、その音を覚えていなかった。玄関へ行き、鍵を差す。半分回したところで、金属が高く擦れた。

確かに、きゅ、と鳴いた。

「油を入れればいい?」

「食用油は駄目。固まるから」

恋人は工具箱の中に、鍵穴用の潤滑剤があると言った。栞が箱を開けると、ドライバー、六角レンチ、使いかけのテープが几帳面に並んでいた。小さな灰色のスプレー缶には、細いノズルがついている。

説明書には、一度噴射し、鍵を数回抜き差しすると書かれていた。簡単な作業のはずなのに、栞は缶を持ったまま動けなかった。

工具箱の蓋には、恋人の字で「戻す場所を守る」と書かれたテープが貼ってある。栞は缶を取り出した跡が分かるよう、隣のドライバーをずらさなかった。

音が消えれば、帰宅したときに恋人が気づいてくれることもなくなる。玄関の音は、部屋にいる人へ「帰った」と知らせる合図だった。

「早く。夕方になると廊下、冷えるよ」

背後から声がした。

栞は鍵穴へノズルを近づけ、ほんの一滴ぶんだけ噴射した。白い粉が縁につく。ティッシュで拭き、鍵を差して抜く。三回目で動きが軽くなった。

扉を閉めて、外へ出る。鍵を差し、右へ回した。

まだ小さく擦れる。もう一度開け、スプレーを足した。恋人はソファから「入れすぎないで」と注意した。

栞は五回、鍵を往復させた。最後に扉を閉め、廊下側から施錠する。

金属は引っかからず、音を立てずに最後まで回った。