鏡のない稽古場
萌黄の故郷にあったダンス教室が、取り壊し前に一日だけ開放される。
元生徒へ届いた招待状には、「最後に鏡へメッセージを書いてください」とあった。ホワイトマーカーで別れの言葉を書き、写真を撮ってから鏡ごと撤去するらしい。
萌黄はその企画が嫌だった。思い出をきれいな一文にすることも、鏡の前で泣くことも、最初から用意されているように感じた。
けれど帰郷を考えるたび、あの稽古場を思い出した。二十九歳の自分には、何かを続けた証明がない。ダンスは十三歳でやめた。町も十八歳で出た。戻ることが、途中でやめたものへの謝罪になる気がしていた。
招待状と一緒に、町の短期住宅の申込書を机へ並べた。二枚の紙は同じA4なのに、一方は過去を閉じ、もう一方は未来を始める顔をしている。
開放日に帰ると、稽古場の鏡はすでに外されていた。搬出作業が予定より早まったのだという。壁には四角い日焼け跡だけが残り、元生徒たちはそこへメッセージを書いていた。
〈ありがとう〉
〈青春でした〉
〈また踊ろう〉
萌黄はマーカーを持ったまま、何も書けなかった。鏡がない壁には、今の自分が映らない。謝る相手も、懐かしむ顔も見つからなかった。
主催者が「書かなくても大丈夫ですよ」と声をかけた。
その瞬間、萌黄は短期住宅の申込書を取り出した。壁に当て、住所欄を書いた。来月から住む予定の部屋番号。まだ審査も終わっていない、仮の住所だった。
壁には書かず、申込書だけを持ち帰った。
出口近くには、取り外された鏡を包んだ毛布が積まれていた。端から欠けた銀色が少しだけ見える。萌黄は覗き込まず、搬出の邪魔になっていた段ボールを一つ外へ運んだ。思い出に別れを告げる代わりに、今そこにある重さを持った。
東京へ戻る電車で、招待状は捨てた。申込書は折れないようファイルに入れた。故郷に戻ってもダンスを再開するつもりはない。昔の自分へ謝罪もしない。
やめたものをやり直すためではなく、やめたままの自分が暮らせるか試すために帰る。
鏡のない壁に何も残さなかったことも、萌黄は自分の選択として持ち帰った。