鏡の前の黒い袋

蘭は、別れた翌朝に髪を切ろうとした。

腰まである髪を台所ばさみでつかみ、洗面台の前に立つ。恋人が長い髪を好きだったからではない。自分の顔ごと変えたかった。

美容師の未散は、はさみを取り上げた。

「切るなら店で」

「今じゃないと意味がない」

「今やると、明日直す料金が倍」

「商売の話?」

「技術の話」

蘭は衝動を尊重してほしい。未散は、衝動にも手順が要ると言う。二人は鏡越しに睨み合った。

結局、先に洗面台を片づけることになった。元恋人の電動歯ブラシ、整髪料、ひげそり、旅行用の小瓶。蘭が黒い袋へ投げ、未散が電池と刃を分ける。

「全部燃えるごみでいい」

「よくない」

「今日くらい」

「今日でも収集車は燃えない物を嫌う」

鏡の端には、二人で撮った写真シールが貼ってあった。蘭は爪で剥がそうとしたが、粘着が残る。

未散はドライヤーを当て、温めてからゆっくり剥がした。写真を見せず裏返し、蘭の手へ渡す。

「捨てる?」

「あとで決める」

未散は黒い袋へ入れず、小さな封筒を出した。

洗面台が空くと、蘭の顔が鏡の中央に戻った。

「切りたい」

「どれくらい」

「全部」

「全部は長さじゃない」

未散は髪を低い位置で結び、三十センチの定規を当てた。寄付できる長さ、傷んだ部分、結べる長さを説明する。蘭はそんな意味を付けたくないと言った。

「寄付しなくていい。でも、切った髪をどう捨てるかは決める」

「失恋まで分別するの?」

「髪は髪」

予約表には空きがなかったが、未散は昼休みの欄へ蘭の名を書いた。特別扱いだと怒られないよう、蘭は通常料金を先に払った。

二人で店へ移動した。未散がクロスを掛け、蘭が自分で最初の一房にはさみを入れた。残りは未散が整えた。

肩で揺れる長さになっても、蘭は別人にはならなかった。

閉店後、二人は切った髪を紙で包み、黒い袋へ入れた。未散が袋を持ち、蘭が店の鍵を閉める。

写真シールの封筒は、蘭のポケットに入っていた。

切るものと残すものを、同じ日に決める必要はなかった。