鐘が捨てる姓
家名を叫びながら塔の鐘を鳴らせば、その姓を持つ者にかかった魔法はすべて解ける。ただし鐘を鳴らした者だけは、二度とその家の者として覚えてもらえない。
ゼフィラは鐘楼の階段を駆け上がった。
屋敷では父も兄も叔母たちも、食卓へ伏したまま眠っている。祝いの葡萄酒に混ぜられた眠りの魔法は、モルド家の血だけを狙っていた。夜明けに心臓が止まる。
ゼフィラも同じ姓を持つ。けれど宴に遅れ、酒を口にしなかった。
塔の鐘を鳴らせば皆は助かる。
代わりに、鐘を鳴らした者は家族の記憶から外れる。肖像画に姿が残っていても、父は娘だと分からない。兄は幼いころ手を引いた相手を思い出せない。家の鍵も、寝室も、食卓の席も、他人のものになる。
「別の者に鳴らさせろ」
階下から従者が叫ぶ。
「姓を持たない者が鳴らしても魔法は解けない」
「では遠縁を」
「夜明けまでに来ない」
ゼフィラは綱を握った。掌に、子どものころの古い火傷がある。父と厨房へ忍び込み、焼き菓子を盗んだときの跡だ。叱られながら二人で笑った。
もし忘れられれば、その思い出はゼフィラ一人のものになる。分け合った記憶は、片方だけが持つ秘密へ変わる。
鐘は重い。一度では足りない。家名の音節と同じ回数、三度鳴らす必要がある。
一打目。
屋敷の窓に明かりが戻り、叔母が身じろぎした。
二打目。
兄が顔を上げ、倒れた杯を見て叫んだ。
父だけがまだ動かない。
最後の一打を前に、階段を上がる足音がした。解けかけた魔法を振り払い、父が来たのだ。顔は青く、息も絶え絶えだった。
「ゼフィラ、やめなさい」
まだ名前を呼んでくれる。
彼女は振り返り、その声を胸へ刻んだ。
「お父さま。私が焼き菓子を焦がした日、覚えてる?」
「何を言っている。早く綱を離せ」
答えになっていない。それでも十分だった。
ゼフィラは家名を叫び、三度目の鐘を鳴らした。
音が町へ広がる。
父の頬に血色が戻る。同時に、その目から娘を見る光が消えた。
彼はよろめきながら彼女の前で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「助けてくださった方。お名前を伺っても?」