閉幕後の帰り道
黒川奈緒は、舞台の感想を「夜汽車」という名前で書いていた。
会社では口数が少なく、週末の予定を聞かれても「少し遠くへ」としか言わない。けれど夜汽車の文章は長い。俳優の指先、照明が消える順番、地方ごとに変わる間。全国公演を追いながら、毎回千字以上の感想を投稿した。
アカウントを作ったのは、初めての遠征帰りの夜だった。誰にも話せないまま車窓を見ているうち、覚えていたい場面が薄れていく気がした。本名を隠せば、好きだと何度書いても許される。その自由に救われ、同時に少しずつ依存していた。
千秋楽の金沢公演が終わった夜、駅のホームで泣きながら最後の投稿を打っていると、背後から呼ばれた。拍手の熱がまだ手のひらに残っているのに、現実の名前を呼ばれた瞬間、奈緒はスマホを胸へ伏せた。
「夜汽車さん、ですか」
振り向くと、同じ部署の後輩が立っていた。奈緒の鞄には、夜汽車のアイコンと同じ小さな機関車チャームがついている。
逃げられなかった。
後輩はその舞台を一度だけ観ていた。失恋直後で何も頭に入らず、帰宅してから夜汽車の感想を読み、ようやく自分が見たものを思い出せたという。
「会社では言いません。名前を結びつけられるの、嫌ですよね」
奈緒はほっとした。それなのに、胸の奥が少し沈んだ。守ってもらうことはありがたい。だが、夜汽車を自分から切り離す言葉に、すぐ同意したくなかった。
新幹線が入ってくる。風で機関車チャームが揺れた。
「言わないでほしい。でも、あなたには隠さなくていい」
奈緒はそう答え、後輩と並んで乗った。帰りの車内で、閉幕後の最後の感想を書き上げる。いつもなら署名は「夜汽車」だけだった。
投稿欄の末尾へ、一行を足す。
《夜汽車こと、黒川奈緒》
全員に本名を明かす勇気ではない。後輩だけが分かる、小さな連結だった。
投稿ボタンを押すと、向かいの席で後輩のスマホが震えた。彼女は画面を読み、声を出さずに拍手した。
奈緒は機関車チャームを鞄の内側へ戻さず、窓辺へ置いた。暗い車窓に、二つの名前を持つ自分が映っていた。