閉店後のカフェオレ

笠井沙都がカフェ〈九時〉へ入ったのは、閉店七分前だった。

「カフェオレを一杯。できれば、ゆっくり飲みたいです」

バリスタの皆月冬馬は、九時になると秒針に合わせて入口の札を裏返す。表はOPEN、裏はCLOSED。客が残っていても顔色一つ変えずに言う。

「閉店は、失敗ではありません」

沙都は翌日、従妹の卒業制作展へ行く予定だった。親戚も集まる。そこで、自分が美術大学を辞めたことを初めて知られる。

「体調を崩したことにしようかと思って」

「大学を辞めた理由を?」

「展示へ行けない理由です」

「行きたいんですね」

冬馬は珈琲と温めたミルクを別々の器で出した。混ぜるのは客に任せるのがこの店のカフェオレだった。

沙都は学校を辞めて半年になる。講評で絵を言葉にするたび、自分の作品が他人の基準へ薄まっていく気がした。課題も人間関係も苦しくなり、退学した。しかし絵まで辞めたわけではない。今も配送の仕事が終わると、借りた部屋で夜中まで描いている。

「でも、大学を辞めた人が卒展へ行ったら、未練がましいですよね」

冬馬は沙都の指先を見た。爪の脇に、洗っても落ちない群青色が残っている。

「辞めた秘密より、続けている秘密の方が目立ちます」

「分かるんですか」

「ミルクでは絵の具は落ちません」

九時になり、札がCLOSEDへ変わった。冬馬は追い出さず、店内の照明を一列だけ残した。

「学校を辞めた。絵は描いている。それ以上を今説明したくないなら、説明しなくていい」

「親に、根性がないと言われそうです」

「閉めた店を、営業失敗とは呼びません。営業時間を終えただけです」

沙都は黒い珈琲へミルクを少しだけ注いだ。全部混ぜなくても、二つは同じカップに収まる。

「卒展で何を言えばいいですか」

「従妹の作品を見に来た、と。あなたの進路説明会ではありません」

冬馬は白いカードへ、『大学は辞めました。絵は続けています。今日は従妹を祝いに来ました』と書いた。沙都が言葉に詰まったときだけ見ればよいという。

飲み終えた頃には、店は閉店して二十分たっていた。沙都が謝ると、冬馬は入口の札を外し、手渡した。

「これ、店のものでは?」

「裏を見てください」

CLOSEDの文字の裏には、同じ大きさでOPENがある。

「閉店は失敗じゃない。札を返せば、いつでも別の側が出る」

沙都は札を借り、翌日の展示へ持っていった。親戚に問われたとき、カードの代わりに胸の中で札を裏返すために。

店では冬馬が、紙へ新しいOPENの文字を書いていた。少し歪んだその札を、まるで最初から決まっていたように扉へ下げた。