防疫線の内側
白い防護服の隊員たちが会社へ入ってきたのは、午後三時だった。
「化学物質の漏出です。対象者を隔離します」
研究室にいた私だけが透明なフードをかぶせられ、担架へ固定された。隣室の同僚が近づこうとすると、隊員は汚染ではなく「接触禁止命令」を理由に追い返した。隊員は迅速で、声も落ち着いている。命を守るためだと言われ、私は指示に従った。
しかし、私を運ぶ隊員の一人はフードの内側でマスクをしていなかった。首元から素肌が見えている。
廊下の測定器も、一度も警報を鳴らさなかった。表示は最初から「0.00」のままだ。
担架のベルトには消防局ではなく、会社の備品管理シールが貼られていた。防護服の袖がめくれた隊員の腕には、危機管理室だけが使う黒い入館バンドも見えた。
「ほかの社員は?」
「別経路で避難済みです」
透明フード越しに見ると、食堂では社員が窓際へ集まり、こちらを撮影していた。誰も避難していない。
私は新薬の安全試験を担当していた。午前中、重い副作用を示すデータが削除されているのを見つけ、監督機関へ報告書を送った。
搬送車の窓は黒く塞がれ、外から見れば救急車に見えるのに、内側には担架を固定する金具より手錠用の輪が多かった。ドアの開閉レバーは取り外されている。
搬送車に入ると、隊員が私の腕から血を採った。
「汚染検査です」
だが採血管のラベルには、化学物質名ではなく「署名能力確認」とある。
車は病院を通り過ぎ、会社の旧研究棟へ入った。地下で停車し、フードが外される。そこには防疫設備ではなく、机と契約書と監視カメラが並んでいた。
防護服の隊員が帽子を脱ぐ。会社の危機管理室長だった。
壁のテレビでは、ニュースが流れている。
『本日、市内で化学物質漏出の事実はなく、消防への通報も確認されていません』
室長は報告書の撤回書を机へ置いた。
「感染を広げないためではない。君の話を外へ広げないための隔離だ」
鉄扉が閉まり、透明フードが床へ落ちる。
防疫線の内側に危険物はいなかった。
危険だと会社が判断した、たった一人の告発者がいた。