防空壕の青い扉
空襲警報が鳴り、小春は防空頭巾の紐を結びながら言った。
「学校の壕へ行こう。近いから」
千景の手から、水筒が落ちた。
前の人生でも昭和二十年のこの夕方、妹は同じ提案をした。父に教えられた醤油蔵の地下壕は遠く、千景は「近い方でいい」と答えた。学校の壕は爆風で入口が崩れた。助けを呼ぶ声は地上へ届かず、小春は暗闇の中で姉の手を握ったまま息を止めた。
千景だけが瓦礫の隙間から救い出された。その後の長い人生で、近道を選ぶたび妹の冷たい指を思い出した。
九十六歳で人生を終えた千景が目を開けると、十二歳の手に同じ水筒がある。水筒には母が縫った赤い紐、足元には擦り切れた草履。夢ではない。外では焼夷弾を知らせる鐘が鳴っていた。
「学校の壕へ行こう。近いから」
「青い扉の醤油蔵へ行く。生きて帰れる方が近道だから」
以前とは違う返事をして、千景は妹の手を引いた。
千景は布団を持ち出そうとする小春から荷物を取り上げ、水筒一つだけを持たせた。前の人生で学んだ避難の知識を、長い説明にせず一つの進路へ変える。
路地に出ると、迷っていた隣家の母子にも叫ぶ。
「学校じゃない! 川沿いの青い扉へ!」
隣家の母親は町内の半鐘を三度打ち、学校へ向かう列にも同じ言葉を伝えた。
五人で走り、醤油蔵の重い扉を閉めた直後、地面が持ち上がるような爆音がした。天井から土が落ち、醤油樽が低くうなる。小春が姉の腕へしがみつく。今度の千景は、握られた手を最後まで温かいまま握り返した。
やがて警報が止み、外へ出た。消防団の男が、学校の壕は入口付近が崩れたが早めの誘導で中は無人だったと叫んでいた。学校の方角には黒煙が立っていたが、青い扉の前には五人分の影が夕日に伸びている。
小春は煤で黒くなった水筒を振り、中に残った一口を姉へ差し出した。前の人生では妹へ譲れなかった最後の水を、今度は二人で半分ずつ飲む。
前の人生で小春の腕から止まった時計を、千景は見た。
午後六時三分。
死亡時刻だった針が、かちりと次へ進む。
「お姉ちゃん」
「なに」
「明日も水筒、二人で取りに来ようね」
前の人生では二度と来なかった“明日”が、煤けた青い扉の向こうから妹の声で呼んでいた。