隣の席札
由良の隣には、空の椅子と、裏返された席札があった。
友人・朋花の結婚式へ、恋人の紗月と出席するはずだった。招待状の同伴者欄にも名前を書いた。けれど一週間前、由良は「やっぱり一人で行く」と伝えた。
大学時代の友人たちは、由良が女性と付き合っていることを知らない。朋花だけは知っていて、何も特別扱いせず二人分の席を用意してくれた。
紗月は怒らなかった。
〈分かった。行きたくなったら近くで待ってる〉
その優しさが、由良にはいちばん苦しかった。
披露宴が始まると、隣の席札は裏返されたままだった。表には「新婦友人 紗月様」と印刷されている。見せなければ、欠席者が誰かは分からない。
乾杯後、友人が空席を見て尋ねた。
「彼氏、急に来られなくなったの?」
由良は水を飲み、「うん」と答えかけた。
スマートフォンには二件のメッセージがあった。
母から〈朋花ちゃんのドレス写真送って。あなたのときの参考にするから〉。
紗月から〈駅前の喫茶店にいる。帰り、一緒に帰れたらうれしい〉。
由良は二つの画面を閉じた。ここで話せば、驚かれる。好奇心で質問されるかもしれない。母の耳にも届くかもしれない。紗月といつまで続くかも分からないのに、戻せない言葉だけが残る。
それでも、いない人にするために用意された空席が、だんだん大きく見えた。
由良は席札を表へ返した。
「彼氏じゃなくて、彼女。私が怖くなって、来ないでって言った」
友人は目を丸くした。すぐ「そうなんだ」と言う人も、何も言えない人もいた。誰かが気まずそうにグラスを触った。
由良は説明を足さなかった。理解してもらうための発表ではない。隠した選択を、紗月のせいにしないためだった。
会場の外へ出て電話をかける。
「今から来られる?」
『いいの?』
「来てほしい。たぶん、面倒なことも起きる」
電話の向こうで紗月が笑った。
『じゃあ、面倒な方へ行く』
二十分後、由良は受付まで迎えに出た。紗月の席札は、まだ裏返していない。
由良はそれを両手で持ち、本人の前へ置いた。空席を埋めたのではない。誰を隣に座らせたか、自分の名前で答えたのだった。