青い閉館灯
弟が亡くなってから、姉は水族館へ行けなくなった。
弟は病室の壁へ魚の写真を貼り、退院したら館内のスタンプを全部集めると約束していた。
最後の一つを残したまま亡くなった。
十年後、姉は水族館の設備担当として働き始めた。
客のいない通路なら平気だと思った。
閉館後、最後の大水槽だけ青い灯りが残る。
その灯りが消えるまで、水槽の反射へ弟が映った。
「遅い」
少年のまま、ガラスへ鼻を付けている。
弟は姉を責めなかった。
代わりに、魚の名前を次々間違えた。
生前も説明板を読まず、全部「大きい魚」「怖い魚」と呼んだ。
姉は古いスタンプ帳を取り出した。
最後に残ったのは、深海魚の印。
病気が悪化した日、姉は一人で押しに来ようとしたが、
「一緒じゃないなら要らない」
と弟に止められた。
「今、押す?」
姉が尋ねる。
弟は首を振る。
「それ、私の心残りじゃない」
「じゃあ何」
「お姉ちゃんが魚を嫌いになったこと」
嫌いではない。
弟を思い出すから避けていただけだ。
だが設備の仕事を選んだのも、弟の約束を代わりに果たすためで、自分が何を好きかは考えていなかった。
二人で閉館後の館内を歩いた。
弟は水槽の反射にだけ現れ、通路を移るたび別の魚の間から顔を出した。
姉は設備の音を説明した。
濾過装置、温度計、夜間照明。
弟は途中で飽き、
「お姉ちゃん、機械の話してるとき楽しそう」
と言った。
姉は驚いた。
魚ではなく、水を支える仕組みが好きだった。
弟のために選んだ仕事だと思っていたが、十年続いたのは自分の興味があったからかもしれない。
青い閉館灯が点滅し始める。
弟はスタンプ帳を指した。
「最後の印、誰と押すの」
姉には、最近この水族館を怖がる姪がいる。弟の病気を家族から聞き、魚を見ると死を連想するという。
「今度、誘ってみる」
「嫌って言ったら?」
「一人で押す」
「やっと一人で来られるね」
灯りが消え、反射には姉だけが残った。
翌月、姪へ事情を話し、水族館へ誘った。
姪は最初断り、後日、入口までならと言った。
二人は深海魚の水槽まで行けなかった。
売店で休み、帰った。
さらに次の月、姉は一人で最後のスタンプを押した。
帳面は完成したが、弟の代わりにはならない。
受付で新しいスタンプ帳を一冊買い、姪へ渡した。
最初から全部集めなくていい。
好きな魚だけ押そう、と約束した。
青い灯りの中に弟はもう映らない。
姉はそれを、約束が終わったのではなく、自分の好きな仕事と次の約束へ渡された合図だと思っている。