静かな告発

矢萩淳は出勤すると、社内倫理アプリへ手首を置く。朝の正義感スコアを記録してから仕事を始めるのが日課だった。私怨による告発を防ぐため、通報時の道徳的憤りが六十以上であること。それだけが受付条件だった。

淳の朝の数値は十八だった。

感情を失ったのは、三年間、上司の誉に数字を改ざんさせられ続けたからだ。怒鳴られ、眠れず、取引先が潰れても、最近は何も感じない。代わりに証拠だけを集めた。

昼休み、淳は会議室へ入り、架空請求の一覧を通報画面へ添付した。金額、時刻、承認者。逃げ道はない。

最後に感情認証が始まる。淳は、ここまで来れば証拠が自分の代わりに怒ってくれると思っていた。

《道徳的憤り十八。告発意思の真正性を確認できません》

「証拠を見ろ」

《悪意ある情報提供から社員を守るため、感情基準を優先します》

淳は誉に殴られた日の写真を開いた。退職した同僚から届いた遺書も読んだ。胸は静かなままだった。数値は二十。

扉が開き、誉が入ってきた。

「何してる?」

机の資料を見て、彼の顔が赤くなる。誉は自分の端末を取り出し、先に通報画面を開いた。

《部下による機密情報の持ち出し》

感情認証は八十七を示した。

《高い道徳的憤りを確認。通報を受理します》

淳の端末が即座にロックされた。

「会社を守るためだ」と誉は言った。本気だった。自分の命令に逆らう者は組織を壊す、と信じている。その確信が数値を押し上げていた。

警備員が来るまでの数分、淳は資料を見つめた。怒りは湧かなかった。ただ、これで終わるのだと思うと少し安心した。

安心した自分を、初めて卑怯だと思った。それでも数値は十三。

《被通報者に反省傾向を検出》

誉の画面に、さらに緑の文字が出る。

《告発の妥当性が補強されました》

淳は両手を机の上に置いた。警備員に抵抗しないためではない。震えていないことを、自分で確かめるためだった。

持ち出される直前、添付した証拠は自動削除された。

削除完了の音だけが、ひどく明るかった。