音のないサビ

 文化祭の朝、沢渡澄花の声が出なくなった。

 喉を痛めたわけではない。舞台袖で満員の体育館を見た瞬間、息だけが漏れ、音にならなくなった。

「中止にする?」

 ギターの大路晴臣が聞いた。

 澄花は首を振る。

 この日のために作った曲だった。サビには、言えなかったことを全部詰めた。歌えなければ、ただの伴奏になってしまう。

 晴臣は足元のスケッチブックを拾い、太いペンで何かを書いた。

 幕が上がる。

 イントロが始まり、澄花はマイクの前に立った。口を開いても、一番の歌詞は出ない。客席がざわつく。

 そのとき、晴臣が一枚目の紙を掲げた。

 《一緒に歌ってください》

 後ろのスクリーンにも同じ言葉が映る。

 ドラムが四拍を刻み、晴臣が歌い出した。音程は外れていた。ベースも加わる。前列の部員が続き、やがて客席全体が、配布していた歌詞カードを見ながら歌い始めた。

 澄花は声のないまま、口だけで歌った。

 自分の歌が、自分以外の何百人もの声になって返ってくる。

 サビの直前、晴臣が次の紙をめくった。

 《ここからは、沢渡へ》

 歌詞カードにはない一文だった。

 客席の声が迷い、少しずつ止まる。

 晴臣は最後の紙を掲げた。

 《ずっと好きでした》

 体育館が一瞬、完全に静かになった。

 澄花はマイクを握った。声はまだ出ない。

 だから彼女は晴臣のスケッチブックを奪い、裏返して書いた。

 《歌詞、勝手に変えないで》

 客席が笑う。

 その下へ、もう一行。

 《でも返事は、はい》

 笑いが歓声に変わった。

 晴臣は顔を真っ赤にしてギターを構え直し、サビを最初から弾いた。今度は体育館中が迷わず歌った。

 澄花の声は、最後まで戻らなかった。

 それでも録画には、曲の終わりに彼女が笑いながら、音のない「好き」を口にする瞬間が残っている。

 晴臣はその映像だけ、卒業後も音量を最大にして見るのだと言った。

 澄花は、聞こえないのにね、と笑った。