鮭ハラスの銀色

黒瀬周平の恋人は、父の退院日を決める電話の最中に部屋を出ていった。

 父が脳梗塞で倒れてから四か月、周平は病院と実家と会社を往復した。恋人との約束は何度も変更した。彼女が「私も一緒に考えたい」と言うたび、「今はそれどころじゃない」と返した。

 最後に彼女は言った。

「お父さんと張り合いたいんじゃない。あなたの人生に、緊急事態じゃない時間がないのが苦しい」

 周平は、その言葉を薄情だと思いたかった。

 彼女は病院へ着替えを運び、父が食べやすい物まで調べてくれた。それでも周平は、助かったと言う代わりに「無理しなくていい」と帰した。頼れば、父の病気に恋人まで巻き込むと思った。結果として、彼女だけを外へ置いた。

 深夜の「潮目」には彼一人しかいなかった。燗酒を一杯頼むと、店主は鮭ハラスを網へ載せた。銀色の皮が縮み、脂が炭へ落ちてぱちっと火を上げる。塩と煙の匂いが立ち、箸を入れると身の間から透明な脂がにじんだ。

「どこから食べます」

 周平が聞くと、店主は皮を上へ向けた。

「好きな方から。俺なら皮だ」

 誰の正しさも決めない言い方だった。

 周平は、明日の退院後の予定を見直した。自分が毎晩泊まる前提を消し、病院でもらった地域連携室の番号を登録する。午前中に介護サービスを相談し、遠方の姉にも一週間だけ来られないか頼む。日曜の午後は、父のためでも恋人のためでもない空白として残す。何をするかは決めない。眠っても、洗濯だけで終わってもいい。予定のない時間を持つことに、周平は申し訳なさを感じたが、その申し訳なさごと予定表へ置いた。空白を誰かの急用で埋めない練習から始める。

 彼女へ「これからは時間を作る」とは送らない。作った時間を復縁の証拠にすれば、また誰かのためにしか自分を変えられない。父の生活は明日も続き、周平の疲れも消えない。

 皮から噛むと、ぱりっと硬い音がして、その下の脂が熱く広がった。塩気の向こうに鮭の甘さがあり、銀色の皮だけが最後まで舌に香ばしく残った。