鴨の向こうの赤い鍋
八木沢花音は、冬の池に鴨が来ると、昔の恋人が作った赤い鍋を思い出す。
岳人は辛いものが好きで、トマト鍋にも唐辛子をたっぷり入れた。花音は辛さが苦手だったが、言えば子ども扱いされる気がして我慢した。
二人が別れる夜、「あなたは私の味覚さえ知らない」と言った。岳人は何か答えかけたが、花音は聞かなかった。
数年後、引っ越しの荷物から赤い鍋敷きが出てきた。裏へ、岳人の字で材料が書かれている。
〈鍋本体は辛口。花音の器には蜂蜜小さじ半分、粉チーズ。先に取り分ける〉
花音は、彼が台所でいつも二つの小鉢を用意していたことを思い出した。自分はそれを薬味だと思い、見ようともしなかった。
窓の外の池では、鴨が水へ嘴を入れている。花音は一人用の鍋を火にかけ、トマト、玉葱、鶏肉を煮た。唐辛子を一本だけ入れる。
最初の器はそのまま。舌がひりつき、すぐ水が欲しくなった。
二杯目には蜂蜜を少し溶かし、粉チーズを振る。辛さは消えず、角だけが丸くなる。トマトの酸味と鶏の出汁が、ようやく分かった。
花音は岳人に連絡しなかった。彼が気づかっていたからといって、二人がうまくいったことにはならない。花音も、本当に辛いと言えなかった。
ただ、知らなかったのではなく、知ろうとしてくれた時間があった。その事実まで苦い記憶へ混ぜる必要はないと思えた。
鍋の残りへごはんを入れ、卵を落とす。赤い汁がやわらかな橙色に変わった。
池の鴨は岸へ上がり、羽の間へ嘴を埋めて眠り始めた。
花音は最後の一口まで、急がず味わった。部屋にはトマトと唐辛子の熱い香りが残り、蜂蜜の甘さが喉の奥で、昔の言葉の尖りを静かに包んでいた。
食後、花音は赤い鍋敷きを洗い、裏の文字が消えないよう布で押さえた。その下へ自分の字で〈卵は最後、辛いと言ってよい〉と加える。味覚を分かってもらうには、我慢せず伝えることも必要だった。次に誰かと囲む鍋では、最初にそう言おうと思う。
窓を少し開けると、冷たい池の匂いが入り、鍋の熱とぶつかった。花音は頬の汗を拭き、辛さを隠さず「辛い」と声にした。その一言は、思っていたよりずっと穏やかだった。