黒いナイト

岩城沙月が珈琲店チェックへ入ると、窓際の盤上に、黒いナイトが一つだけ置かれていた。亡くなった恋人が最後に触れた駒だった。

恋人はこの店で、沙月と毎週チェスをした。二人とも強くなく、終盤になると店主が閉店準備を始めるまで考え込んだ。最後の対局は、恋人の入院前日だった。黒のナイトが盤の中央へ進んだところで時間切れになり、「続きは来週」と言って帰った。来週は来なかった。勝敗も、次の一手も決まらないままだった。

一年後、沙月は部屋を引き払うことにした。恋人の服も本も、箱へ詰めた。けれど回収業者の予約確定だけ押せずにいる。捨てることと、もう帰らないと認めることが同じに思えた。

新居は一人用で、クローゼットも狭い。何を持っていくか決めるたび、恋人への愛情を採点しているようだった。全部残せば正解なのかもしれないと考え、段ボールを再び開けては閉じた。

店主は盤からナイトを取り、底のフェルトを剥がした。長く使われて端がめくれ、立たせるとわずかに傾く。新しい黒いフェルトを丸く切り、底へ貼る。白の駒を並べ直すことも、止まった対局を再現することもしなかった。

沙月は、駒を譲ってほしいと頼んだ。店主は一度、空いた盤の中央へナイトを戻し、四方から傾きを確かめた。それから黒い紙ではなく、白と黒の市松模様の薄紙を一枚だけ広げた。

紙の中央へ駒を置き、対になる駒を探さず、包みを四角く畳む。値札には「チェス駒・単品」と書いた。店主は一対分の箱を探さず、駒一つにちょうどよい小箱を選んだ。会計後、盤の空いた升目へ別の駒を補充せず、木の蓋を閉じた。

沙月は店の隅で、回収業者の画面を開いた。項目には「衣類」「書籍」「生活雑貨」と並んでいる。思い出という欄はない。残す物は自分で選べるし、残さない物に愛情がなかったことにはならない。

彼女は回収日を翌週の土曜に指定し、予約を確定した。確認メールの宛名は、沙月一人の名前だった。包みの中のナイトは、一駒だけでも傾かずに立てる底を持っていた。