黒猫の隣の空席
土岐嶺すずが代役として歌ったMVには、黒猫の隣に空席があった。
失踪した前任歌手のパートを録り直し、顔も声もすずへ差し替えた新曲。制作会社は「空席は彼女への追悼演出」と説明した。すずは奪ったつもりはなかったが、ファンからは居場所を盗んだと責められていた。会社は二人を比べる広告を出し、古い歌声を「未完成版」と呼んだ。すずは訂正を求めたが、契約前の記録だと退けられた。
イントロで、夜の喫茶店に黒猫が入ってくる。空席の向かいに座るMVの少女は、すずと同じ顔をしている。だが歌詞とは別に、椅子を指して口を動かした。
「席を空けて」
すずは、自分が降りるべきだと言われた気がした。Aメロで少女は二つのカップへ飲み物を注ぐ。一つにはすずの録音波形、もう一つには前任の仮歌波形が湯気として浮かぶ。二つはサビ直前まで重ならない。
二度目の指示で、空席がわずかに手前へ動いた。
「席を空けて」
コメント欄には「返せ」の文字が流れる。すずはマイクを外そうとした。しかし曲は一回限りの生歌連動型で、彼女が歌を止めればMVもそこで消える。
サビで、少女がテーブルを二つに広げた。空席はすずを追い出すためではなく、隣へもう一人座れるよう位置を空けていた。画面の非表示クレジットが開き、前任歌手が作詞と仮歌だけでなく、主旋律の半分を作曲していた記録が出る。会社は失踪を理由に名を削り、すず一人の新曲として売ろうとしていた。
すずは生歌のキーを半音下げた。すると湯気の波形が噛み合い、前任の声と初めてデュエットになる。黒猫は二人分のカップの間へ移った。
最後の一音で、少女がエンドクレジットに新しい一行を作る。
「席を空けて」
代役に舞台から退けと迫る言葉ではなかった。一人分に狭められた作者欄へ、消された歌い手が並んで座れる場所を作れという要求だった。
すずは自分の名を残したまま、その隣へ前任の名を戻した。空席は二つの名前で満たされ、責めるコメントより先に、初めて二人分の拍手が鳴った。