ぼかし忘れた本棚
鴇田璃緒は、在宅会議の背景を必ずぼかす。背後の本棚には、漫画〈環状都市のアリア〉が全巻並び、中央には推しの機械技師・ノエルのフィギュアがある。会社では漫画を読まない人と思われている。自分の部屋まで仕事相手に見せる必要はない、と言い聞かせてきた。画面の中では、生活の痕跡がない白い壁だけを自分の背景にしていた。
四半期報告の日、パソコンの更新で設定が初期化されていた。会議に入ると、三十冊の背表紙と、レンチを掲げたノエルが画面いっぱいに映る。
璃緒が気づくより早く、直属の上司・高嶺比佐から個別メッセージが届いた。
〈背景設定が外れています。カメラを一度切って直して大丈夫〉
璃緒は映像を止め、ぼかしを戻した。ほかの参加者は資料を開いていて、誰も話題にしなかった。会議後、比佐から通話が来る。
「勝手に見た形になって、ごめんなさい」
「いえ、私の設定ミスです」
「十二巻の限定版ですね。私もノエル推しなので分かりました」
璃緒は評価を心配した。仕事中に趣味の棚を映したことで、集中していないと思われないか。比佐は質問される前に言った。
「背景は生活空間です。業務評価とは分けます。それに、ぼかしたいなら今後もぼかしていい」
「同じ推しなのに、見せなくてもいいんですか」
「同じ推しは、部屋を公開する合言葉ではないでしょう」
比佐の背後も常に白くぼかされている。そこに何があるか、璃緒は急に知りたくなったが、尋ねなかった。
一週間後の一対一面談で、璃緒は背景のぼかしを少し弱くした。本棚全体は読めないが、ノエルのフィギュアだけが輪郭を持つ程度に。
比佐も背景を変えた。画面の端に、同じノエルの工具箱型ペン立てが見える。
二人は新刊の話を一言だけし、すぐ業務へ戻った。
璃緒は会議が終わっても、設定を元の強いぼかしへ戻さなかった。家を全部見せたいわけではない。見られたら終わると思っていたものを、自分の選んだ濃さで映せるようになっただけだった。