まだ生まれない娘から
午後六時五十四分、代々木真尋がバイクのエンジンをかけると、知らない番号から少女の声がした。
『お父さん、左へ避けて』
八秒後、交差点で自動運転タクシーが暴走する。真尋が左へ切ると、歩道の自転車を倒した。衝撃のあと、また六時五十四分。鍵には青い猫のキーホルダーが揺れている。
今夜七時、真尋は喫茶店で初めて会う女性と待ち合わせていた。少女は四年後に生まれる二人の娘、こよみだという。
誰も傷つけず、七時までに喫茶店の扉を開ける。それが未来を固定し、反復を終える条件だった。
右へ逃げれば、宅配車と接触し、タクシーがバス停へ突っ込んだ。
交差点の手前で止まっても、後続トラックに押され、真尋のバイクがタクシーの進路へ滑った。
『お父さん、左へ避けて』
声は周回ごとに近くなった。学校の話、好きな卵焼き、青い猫の名前。真尋が待ち合わせの女性へ贈る予定のキーホルダーを、未来ではこよみがランドセルにつけるらしい。
真尋は事故車の動きを覚え、警察へ通報し、信号を変え、道路へ物を投げた。それでも八秒では全員を動かせない。ただ、交差点の直前にバイクを横倒しにすれば、後続車が道を塞ぎ、暴走タクシーは無人の工事柵へ突っ込む。真尋自身は無傷で済む。
だがバイクを捨てれば、喫茶店には間に合わない。女性は今日を最後に海外へ移る。二人は会わず、こよみは生まれない。
次の着信で、少女はもう答えを知っていた。
『遅れたら、私いなくなる?』
真尋は青い猫を鍵から外した。
「たぶん」
『じゃあ、急いでよ』
信号が変わる。真尋はアクセルではなく、バイクを道路へ倒した。後続車が急停止し、交差点が塞がる。暴走タクシーは工事柵へ突っ込み、エアバッグだけを白く開いた。
六時五十五分。時間は戻らない。
携帯の向こうで、こよみが何か言おうとした。声は遠い風になり、通話履歴ごと消えた。
真尋は待ち合わせの女性へ、会えないという一文を送った。彼女は今夜の便で国外へ移り、アプリも七時に退会すると書いていた。既読はつかないまま、連絡先が画面から消えた。真尋は青い猫を工事柵へ結び、壊れたバイクの横へ座る。
七時を告げる鐘が街に鳴る。誰も傷ついていない交差点で、真尋だけが、存在しなかった娘の好物を覚えていた。