アヒル池の揚げたてコロッケ
公園の隣の総菜喫茶「ひなた口」には、小さな池がある。
池には白いアヒルのぺたが住み、夕方になると店の裏口まで歩いてきて、扉を嘴でこつこつ叩く。どれだけ遠くへ遊びに行っても、揚げ物の匂いがすると戻ってくる。
庄司柚奈は、ピアノの発表会が終わっても家へ帰らなかった。
十歳の彼女は、舞台の途中で一度止まった。すぐ弾き直し、最後まで終えた。母も先生も褒めてくれた。
ただ、客席にいるはずの父の席が空いていた。
「コロッケ、一個」
柚奈が硬貨を並べると、店主の奈津は時計を見た。
「夕飯前じゃない?」
「今日は夕飯、ありません」
本当はある。父が作ると言っていた。嘘をついた罪悪感で、声が小さくなった。
奈津は何も追及せず、揚げたてのコロッケを紙へ包んだ。
衣は細かく、触れるとぱちぱち音がする。割ると、潰したじゃがいもと挽肉の湯気が出た。玉葱の甘い匂いに、ソースの酸っぱさが重なる。
柚奈は舌をやけどしないよう、端から少しずつ食べた。
池の向こうから、ぺたが急ぎ足で戻ってきた。急いでいるのに、体は左右へゆっくり揺れる。
「遅い」
柚奈が言うと、奈津は笑った。
「アヒルなりの全速力」
「時間に間に合ってない」
「でも帰ってきたね」
そのとき店の前に、自転車のブレーキ音がした。父の篤志が、首から社員証を下げたまま駆け込んでくる。
「柚奈、ごめん。電車が止まって、着いたらもう終わってて」
「見てないじゃん」
「見てない。だから、もう一回弾いてほしい」
「家で?」
「うん。最前列で聴く」
父の息は切れ、髪は風でぐしゃぐしゃだった。柚奈は最後のひとかけを口へ入れ、すぐには返事をしなかった。
ぺたが父の靴を嘴でつついた。
「この子も怒ってる」
「申し訳ありません」
篤志が本気で頭を下げるので、柚奈は少しだけ笑った。
「コロッケ、もう一個買って」
「二個でも」
「一個でいい。半分あげるから」
帰り道、父が自転車を押し、柚奈はその隣を歩いた。紙袋から揚げ油とじゃがいもの温かな匂いがする。
背後で、ぺたが裏口をこつこつ叩いた。遅れても戻ってきたものを迎える音が、夕暮れの公園に小さく響いていた。