セルフケアを休む
深雪は浴槽に湯を張るつもりで、蛇口の前まで行った。けれど栓をしていないことに気づき、もう一度かがむ気力がなく、そのまま洗面所の床に座った。
スマートフォンには、〈疲れた日のセルフケアルーティン〉という動画が流れていた。香りのいい入浴剤、キャンドル、ストレッチ、日記、ハーブティー。動画の女性は「自分を後回しにしない」と穏やかに話している。
深雪も自分を後回しにしたくなかった。だから入浴剤を買ったことも、日記帳を用意したこともある。入浴剤は棚の奥で二袋残り、日記は三日目から白紙だった。
今日は会議が長引き、帰宅してから冷たいサンドイッチを食べた。洗濯機には朝の洗濯物が入ったまま。終了音を聞いたのは覚えているのに、取り出す時間だけが一日から抜けていた。
動画を見ていると、疲れを取るためにも努力が必要に思えた。湯を張り、照明を落とし、体を伸ばし、気持ちを言葉にする。どれも良いことなのに、全部できない自分は、自分を大切にすることまで下手だった。
深雪は床に座ったまま、洗面台の下からボディシートを一枚出した。首と腕を拭く。柑橘の匂いがして、少しだけ汗のべたつきが消えた。
それだけで風呂の代わりにはならない。セルフケア動画にもならない。けれど今夜の体には、その一枚がちょうど届いた。
洗濯機を開けると、湿った服が重なっていた。全部干す代わりに、明日着るブラウスだけ取り出してハンガーへ掛ける。残りはもう一度短い脱水をかけた。
動画の女性を責める気はなかった。あの時間で救われる夜もあるだろう。ただ深雪の今夜には、キャンドルより、ボディシートと脱水三分が必要だった。
スマートフォンを充電器につなぎ、日記帳は開かなかった。今日の気持ちを整理しなくても、眠っていい。
深雪は浴槽の栓だけした。湯を張るのは明日でも、来週でもいい。自分を大切にする方法を、きれいな形に整えなくていいことにした。
洗面所の灯りを消すと、柑橘の匂いがまだ腕に残っていた。それを今夜の十分な手入れとして、深雪はベッドへ向かった。