ネガフィルムの余白
写真館の保管庫から、合鍵が消えた。
若い店主の江見杏奈は、棚卸しの朝に鍵箱を開けて青ざめた。昨夜まで店にいたのは助手の榊原凪、古い写真を探しに来た客の庄司、夜間点検をした管理人の鷹取。保管庫には何十年分ものネガがあり、一本でも失えば取り返しがつかない。
だが、棚は乱れていなかった。
手掛かりは三つだけ。棚の一角に残った、箱一つ分の埃のない四角。作業机に置かれた古いネガ袋。そして暗室のドアノブに残る、庄司が使っていたものと同じラベンダーの香り。
杏奈が暗室を開けると、赤い灯りの中で凪が印画紙を水から上げていた。庄司も隣にいる。合鍵は引き伸ばし機の足元に置かれていた。
「盗んでません。勝手に借りました」
凪は、濡れた手を拭いて頭を下げた。
一か月前、杏奈は亡き母と二人で写った最後の写真をデジタル化しようとした。写真館を継ぐか迷った夜、母の表情をもう一度見れば決められる気がしたのだ。ところが作業を任された凪が、保存先を誤って上書きした。杏奈は「ネガがあるから平気」と言ったが、そのネガの箱は保管庫の奥で見つからなかった。杏奈が平気だと言った声が、凪には平気でないように聞こえていた。
凪は謝れないまま、閉店後に探し続けた。昨日、庄司が持参した古い注文票から、母の写真が通常の家族写真ではなく、成人式の予備撮影として別番号に保管されていると分かった。管理人の鷹取に暗室の電気を延長してもらい、合鍵で箱を取り出したのだ。
「最初に言ってくれれば、一緒に探したのに」
「がっかりする顔を見るのが怖かったんです」
水面から現れた写真には、二十歳の杏奈と母が写っていた。撮影者の指示を無視し、母は横を向いて杏奈だけを見ている。杏奈はその視線に気づかず、少し緊張した顔で正面を向いていた。
写真の白い余白には、母の字で《この子が笑った方を一枚ください》と注文が残っていた。
庄司が差し入れたラベンダーのクッキーを、三人で暗室の外で分けた。杏奈は写真を胸元へ置き、一口かじった。
「今度は、笑った方も探そう」