パスポートの鉛筆書き
近衛結沙は、申請書の緊急連絡先だけを書けずにいた。
シンガポールで働く塩見壮一と付き合って四年。月に一度どちらかが飛行機に乗り、空港で会い、空港で別れた。恋人と呼ぶことはあっても、家族ではない。書類の上では、何の関係もなかった。ホテルの予約では同行者、入国カードでは別世帯。四年分の搭乗券を重ねても、二人を結ぶ公的な一行にはならなかった。
旅券窓口の受付終了まで七分。番号札の表示が進むたび、その白い欄だけが大きく見えた。
隣の椅子で、出張帰りの壮一が結沙の書類をのぞいた。
「そこ、書かないの?」
「うん。あとで書く」
「誰を書くの」
「妹かな」
「妹、今カナダだよね」
「じゃあ空欄で出す」
結沙の両親は、離婚のとき互いの名前をあらゆる書類から消した。名前をつけた関係ほど、壊れたとき跡が残る。だから壮一の名前を書いて、いつか消す日が来るのが怖かった。それだけで、好きと言えなかった。
「俺じゃだめ?」
壮一の問いは短かった。
「海外にいるし」
「電話はつながる」
「続柄が書けない」
「友人でいい」
「書かなくても受理されるって」
二度目の返事は、断りだった。
窓口から「あと五分です」と声がかかる。周囲の人が立ち上がり、列が短くなる。
壮一は胸ポケットから鉛筆を出した。
「下書きだけすれば」
「鉛筆は消えるから嫌」
言ってから、自分の矛盾に気づいた。消えるのが怖くて書けないのに、消える鉛筆も嫌だった。
「結沙」
「なに」
「空欄にしたいの?」
逃げられなかった。受付番号が次に呼ばれる。
「空欄にしたいんじゃない」
結沙はバッグから黒いボールペンを出した。
「あなたの名前を書いて、消す日が来るのが怖い」
壮一は鉛筆をしまった。
「じゃあ、消す日が来たら、そのとき二人で困ろう」
結沙の番号が呼ばれた。
彼女は緊急連絡先の欄に、塩見壮一、とボールペンで書いた。続柄には規定どおり「友人」と記す。
呼び方はまだ変わらなくても、白いままではなくなった。結沙はインクが乾くまで指で触れず、その名前を消さないまま窓口へ差し出した。