ピアノの下の低いラ

指揮者の浪越彰久が、リハーサル室から消えた。

公演前夜、浪越は楽団の会計資料を持って一人で第一リハーサル室へ入った。ピアニストの魚住沙都子、舞台技師の芦名健悟、楽団事務長の久留島碧子が廊下に残った。扉は一つ、窓は防音の固定硝子。室内にはグランドピアノと譜面台しかない。

午後十時、内側から低いラの音が一度響いた。直後に芦名が合鍵で開けると、浪越はいなかった。ピアノの蓋は閉じ、内部にも人は隠れられない。三人は扉前にいて、誰も出ていないと一致した。

久留島は「床下はコンクリートです」と言った。

私はピアノの周りで、三つだけ異常を拾った。

第一室は舞台から離れた地下階にあると思われていたが、実際には大ホール袖の真上に増築されていた。楽団員でさえ、楽器を搬入する日は別の入口を使うため、床の設備を見た者は少ない。芦名だけがその構造を毎月点検していた。

第一に、魚住が低いラの鍵を押すと、同じ音が床下からわずかに遅れて返った。厚いコンクリートなら生じない空洞の共鳴だった。

第二に、清掃された床のうち、ピアノを囲む長方形だけ縁に古い埃が残り、床材の継ぎ目と一致していた。

第三に、舞台設備の制御記録には午後九時五十九分、第一室の「楽器昇降台」が十八秒だけ下降・上昇した履歴があった。

魚住が床へ耳を寄せた。

「下に保管庫がある?」

「ピアノごと上下させる小型リフトです。床面と同じ材で蓋を作ってある。浪越さんはピアノ脇の昇降台に乗り、芦名さんが地下へ下ろした。低いラは、下降中にピアノがわずかに傾き、鍵盤へ置かれた重りが触れた音です」

床下の共鳴、長方形の埃、制御履歴は、床の一部だけが動いたことを示していた。芦名は地下保管庫で浪越を出し、搬入口へ導いた。会計資料は横領を告発するためのものだった。

久留島の顔から血の気が引いた。

私は床の継ぎ目に足を置いた。

「浪越さんは壁も扉も通っていません。部屋の床が、十八秒だけ地下へ退いたんです」