ポンプ室から来た雨
乃々花の休憩室には、雨が二種類ある。
一つは窓を打つ本物の雨。もう一つは、地下のポンプが水を送る振動だ。ごう、と始まり、配管を伝い、床の下で遠くなる。水道施設の夜勤では、晴れた日にもその雨が続く。
午前一時三十五分。乃々花は監視卓を交代し、休憩室へ入った。
蛍光灯は白く、空調は冷えすぎていた。電気ケトルの底で水が回り、壁の時計の秒針が機械的に進む。机には泥の小さな跡が三つ残っていた。現場確認から戻った誰かが、靴を拭ききれないまま座ったのだろう。
乃々花は跡を避け、椅子へ腰を下ろした。
カップ麺の蓋を半分だけ開ける。湯を注ぎ、三分を待つ。
最近、母から「夜中に一人で怖くないの」と何度も聞かれる。怖いことは少ない。むしろ、何も起きない時間のほうが長い。数値を見て、音を聞き、正常であることを確かめ続ける。その説明をすると、母は安心するより寂しそうな声を出した。
監視卓の画面には、貯水量を示す青い線がゆるく上下していた。町のどこかで蛇口が開き、閉じるたび、数字はわずかに動く。飲み水、風呂、夜中の洗濯。乃々花が知らない暮らしが、一本の線を揺らしている。誰も彼女を意識しないまま水を使う。その無関心は、今夜は寂しさより信頼に近く見えた。
ポンプが回る。
雨が窓を打つ。
カップの中で麺がゆっくりほどける。
ドアが開き、濡れた作業着の人が入ってきた。泥跡と同じ靴底だった。
「外よりここ、寒いですね」
相手は腕をさすり、空調のリモコンを見た。
「二十二度です」
「水の施設なのに、乾きますね」
小さく笑い、冷蔵庫から飲み物を取ると、すぐ出ていった。名前は知らない。交代表で見たことがある程度の人だった。
乃々花はリモコンを二十三度に上げた。
風が止まるわけではない。すぐ温かくなるわけでもない。ただ表示の数字が一つ変わった。
カップ麺を開ける。湯気が蛍光灯へ上り、空調に流される。
泥の跡は乾き始め、輪郭だけを残していた。誰かが外の雨をここまで運び、乃々花は地下の雨を聞いている。
休憩終了の前に、乃々花は机を一度だけ拭いた。三つの跡のうち、二つだけ消え、一つは薄く残った。
全部きれいにしなくてもいいと思った。今夜は一人で監視卓へ戻り、水が静かに流れていることを見守れそうだった。