ミュートされた声

佐分利尋人は、怪談を音声だけで配信するポッドキャスターだった。顔を出さない分、音には神経質だった。

その夜は、地方に伝わる「声貸し」の実験音源を流す予定だった。死者へ口を貸す口寄せではなく、生者の声を一晩だけ家の守り神へ預ける習俗だ。提供者のメモには一つだけ注意がある。

《自分の声で「ミュートして」と聞こえても、その音声を消してはいけない》

音源の波形には、尋人が録音を始める前から一本の声が入っていた。解析すると声紋一致率は一〇〇%、年齢だけが《死後一日》と表示された。配信開始後、尋人の語りの下に薄い二重音声が混じった。同じ声、同じ呼吸だが、半秒早く話している。

『次の話へ行く』

半秒後、尋人が無意識に同じ言葉を言う。

やがて先の声が囁いた。

『ミュートして』

尋人はハウリングだと思い、ミキサーの該当トラックを一度だけ消音した。

ミュートしたトラック名は《現在の本人》。残ったトラック名は《次の本人》へ自動で変わった。残ったのは、自分ではないほうの声だった。

その声は滑らかに怪談を続け、視聴者の名前を読み、投げ銭へ礼を言った。尋人が話してもメーターは動かない。コメント欄では誰も異変に気づかず、《今日いつもより聞きやすい》と褒めている。

先の声は最後に言った。

『これで本人確認を終わります』

配信が終了すると、尋人の声は戻った。しかし録音には一言も残っていなかった。

翌朝、スマートスピーカーへ天気を尋ねる。端末は反応しない。何度呼びかけても青い光さえ点かない。

アプリを開くと通知が出ていた。

【佐分利尋人さんの声紋を削除しました】

【新しい本人の声を登録しました】

登録時刻は昨夜、ミュートを押した瞬間。

そのとき、尋人の背後の無音へスピーカーが応答した。

「はい、尋人さん」

誰も話していないのに、玄関の鍵、銀行アプリ、仕事用パソコンが順に本人認証を通過していく。

最後にスマホが表示した。

【音声所有者が、佐分利尋人をミュートしました】

尋人は叫んだ。喉は震えたが、世界には一切届かなかった。