一人ぶんの静かな席

九鬼澤晴臣は、六百十二年間、一度も席を譲らなかった。

不死化後の人口上限制度では、出生一件につき一人が〈静かな席〉へ入る。身体を地下施設で永久休眠させ、意識も停止する。死ではないため法律にも宗教にも抵触しない。だが、戻る日は定められていなかった。

晴臣は不動産と居住権を集め、都市に十二の部屋を持っていた。子も孫もその先も生きていたが、ほとんど交流はない。彼は「努力して得た席だ」と言い、出生抽選へ寄付する者を愚かだと思っていた。

晴臣は空室を手放すたび価格が上がると考え、誰にも貸さなかった。窓の照明だけを自動点灯させ、居住実績を偽装した。夜の街には、彼のような不死者が保有する明るい空室が無数に浮かび、出生待機所だけが暗かった。

ある日、所有する集合住宅の廊下で、若い夫婦が泣いていた。出生許可が当たったのに、代わりの休眠者が見つからず期限が切れるという。

「親族に頼めばいい」

「みんな、自分の明日を手放せません」

当然だ、と晴臣は思った。だが部屋へ戻ると、十二の冷蔵庫、十二のベッド、誰も座らない百脚近い椅子が端末に一覧表示された。

彼は初めて、自分が生きる場所ではなく、他人が生きられない場所を所有していると気づいた。

晴臣は匿名で静かな席へ申請した。資産は共同住宅へ寄付し、出生枠は特定の親族ではなく、待機期間が最長の家庭へ渡すよう指定した。

最終日、十二の部屋を歩いた。最初の妻と暮らした台所、百年前に飽きた音楽室、景色だけで買った高層階。どれも永遠に持つつもりだったせいで、きちんと別れたことがなかった。

地下施設の入口で、係員が尋ねた。

「後悔はありませんか」

「起きたら考える」

「起床予定はありません」

「なら、後悔も予定に入れなくていい」

装置へ横たわると、壁のスピーカーから産声が流れた。彼の枠で生まれた子どもの、許可された最初の泣き声だった。

晴臣は名前を知らなかった。それでよかった。

六百十二年守った自分の席を空けたとき、彼は初めて、未来に自分以外の形を許した。