一度も鳴らなかった客席
早乙女汐里がステージ中央で手を叩いた。
音は、客席の最後列まで届いて戻ってきた。
「いい会場だったね」と相良一颯。
「一度も本番しなかったけど」と馬場園響。
三人のバンド〈窓際〉は、活動を始めた春にライブがすべて中止になった。その後はオンラインで曲を作り、画面越しに練習した。卒業を前に、取り壊し予定の小ホールを一時間だけ借りられた。最初で最後の、同じ場所での練習だった。
汐里はマイクを握り、一颯はギターのケーブルをつなぎ、響は埃をかぶったドラムへ座る。
「終わったら、本当に解散?」と響。
「私はフィンランドの大学院」と汐里。
「俺は実家の農園」と一颯。
「僕は中学の先生」
三人の予定を結ぶ線は、地図のどこにも引けなかった。
「先生なら軽音部の顧問やれば」
「数学だよ。しかもドラム下手」
「四年間、画面の右上にいたから分からなかった」
笑い声も客席へ届き、空席に吸われた。
最後の曲は、誰かが部屋から出られない夜のために作った歌だった。汐里は歌詞を間違え、一颯は初めて見る響の手元に合わせ損ねた。響も、二人の呼吸を画面の遅延なしで聞くことに戸惑った。
「生のほうが難しいね」と汐里。
「今さら気づく?」
二度目は合った。音がステージから客席へ広がり、空の椅子一つ一つを人の形にしていく。サビの終わり、三人は初めて同じ瞬間に顔を上げた。
拍手はなかった。
その静けさが、本番を知らない彼らにはいちばん似合っていた。
退館時刻になり、響がドラム椅子を戻す。汐里はマイクをケースへ入れ、一颯は客席二十七番に、バンドの小さなステッカーを貼った。
「剥がされるよ」と響。
「明日、建物ごと壊すんだから同じ」
三人はホールを出て、グループチャットに初めて三人で撮った写真を上げた。直後、汐里が留学用の新しい番号へ変えるため退出した。
《早乙女汐里がグループを退出しました》
客席二十七番だけが、誰にも座られないまま、三人が一度だけ同じ場所で鳴らした音を覚えていた。