一本多い縫い目

高槻果歩がアパレル工場で引き継いだ最後のサンプルには、一本多い縫い目があった。

翌日から産休に入る藤代瑚乃は、片手で着られるジャケットの生産管理を担当してきた。胸元は磁石で留まり、袖口は輪に指を通せば閉じられる。病院の売店へ納める最終サンプルだった。

果歩が左袖を試すと、輪が途中で動かない。裏返すと、補強のための縫い目が通路を横切っている。仕様書にはない一本だった。

縫製主任は「強度を上げるための現場判断」と言った。納期は明朝。百着はすでに裁断済みで、今さら型紙を戻せば間に合わない。

果歩は片手だけで着脱する試験を行った。右手を使わず輪を引くと、布が指へ食い込み、袖を閉じられない。瑚乃は黙って糸切りばさみを取り、サンプルの縫い目をほどいた。

「量産のたび、私がここだけ外してた。主任に言っても、丈夫な方が親切だって」

果歩は百着の裁断を止めた。補強位置を二センチずらし、輪の通路を残す型紙へ修正する。新人パタンナーには「強い服と、使える服は同じじゃない。片手で最初から最後まで試そう」と声をかけた。

商品企画時の利用者メモには、〈人に袖を持ってもらわず外出したい〉とあった。果歩はその一文を縫製台の前へ貼り、百着すべてで片手の着脱試験を行う順番を組んだ。納期表だけを見れば遅れだったが、使う人の朝を遅らせないための修正だった。果歩は完成品を自分で着て、片手だけでポケットまで開けられ、椅子に座ったまま一人で脱げることも確かめた。鏡の前で二度、同じ動作を繰り返した。

工場は夜までかかったが、翌朝の納品数を半分に分けることで、病院側の了承を得た。修正版は片手で静かに閉じた。

部長は果歩へ、瑚乃の生産案件を引き継ぎ、今後も現場で直してほしいと言った。

果歩は一本多い縫い目を貼った報告書と、新しい型紙を提出した。現場でほどき続ける役ではなく、使う人の動作から設計する商品開発へ移りたい。

社内公募の応募欄に今日のサンプル番号を記し、送信した。