一行だけで本を閉じる

二十六歳の柏木萌香の部屋には、途中まで読んだ本が積まれていた。転職の方法、写真の撮り方、朝型になる技術。何かを始める前に十分な知識を得ようとし、読み終えるころには別の不安が増えて、また次の本を買った。

本当は、町の写真展へ応募したかった。募集要項は三年連続で保存している。けれど構図の本を読み切っていない、印刷方法を比較していない、もっと良い写真が撮れるかもしれない。締切が過ぎるたび、来年まで勉強する理由ができた。撮りたいのは、立派な風景ではなく、通勤バスの曇った窓や、閉店後のパン屋に残る粉だった。そんな写真を応募してよいと書いた本はない。評価されなければ、好きだと思った自分まで間違いになる気がして、知識を盾に提出を遅らせた。

図書館前で、大道寺かのがカリンバを弾いていた。親指ではじく小さな金属音は、本を閉じる音より静かだった。一曲が短く終わるたび、大道寺は余韻を追わず次の曲へ移った。萌香には、その潔さが本の途中へ栞を挟むより難しく見えた。終わらせなくても、次へ進めるらしい。萌香の鞄から、返却期限の過ぎた本が三冊のぞいている。

大道寺が一冊を指した。

「一行で本を閉じたら、負けでしょうか」

「読んだことにはならないと思います」

「適当に開いて、一行だけ読んで、閉じてみてください」

萌香は写真集を開いた。偶然のページには、雨でぼやけた窓が一枚あり、短い解説が添えられていた。一行を読み、言われたとおり閉じる。理解も技術も増えていない。それでも窓の曇りだけが目の裏に残った。

帰宅後、未読の本を机から下ろした。写真展の締切は今夜二十四時。応募ページを開くと、作品説明が必須になっている。萌香は過去の受賞作を調べかけ、カリンバの一音を思い出した。

写真フォルダから、雨の日に偶然撮ったバスの窓を選ぶ。説明欄へ一行だけ書いた。〈帰る場所が決まる前の窓です〉

推敲用の本を開かず、萌香はその一行のまま応募を送信した。