一階を選ぶ理由
高瀬砂羽は、十二階と一階の鍵を一本ずつ預かっていた。
同じ建物の空室で、十二階は街の灯りが見える。一階は植え込みに囲まれ、窓の外を人が通る。家賃は一階のほうが六千円安かった。
案内した担当者は、砂羽が一人暮らしだと知ると十二階を勧めた。
「防犯面でも、眺望でも、女性はこちらを選ぶことが多いです」
砂羽も、そうするつもりだった。だが十二階の内見でエレベーターが一度止まり、扉が開くまでの十数秒、息ができなくなった。二年前の地震で閉じ込められて以来、狭い箱が上がる感覚を身体が覚えていた。
階段を使えばいい。十二階まで毎日上れば、そのうち慣れるかもしれない。眺めを諦めて一階へ住むのは、恐怖に負けることだと思った。
一階には小さな専用庭がある。日当たりは弱いが、土が少し見える。窓には補助錠をつけられ、防犯シャッターもある。それでも安全に絶対はない。
申込書の部屋番号欄を前に、砂羽は二本の鍵を握った。十二階の鍵は銀色、一階には緑の札がついている。高い場所の安心と、地面へ自分の足で出られる安心。どちらも完全ではなかった。
砂羽は一階の番号を書いた。
入居後、補助錠とセンサーライトを自分で取り付けた。六千円安くなった家賃の一部は、その費用に消えた。
夜、庭へ出ると、街の灯りは見えなかった。代わりに隣家の台所から煮物の匂いがした。
砂羽は防犯用品店で、補助錠を二種類比べた。担当者には、低層階だから危険、高層階だから安全と単純には言えないと説明された。エレベーターへの恐怖も、侵入への不安も、完全には消せない。二つの不安のうち、対策を自分の手で増やせるほうを選ぶことにした。
庭の土には前の住人が残した小石が混じっていた。砂羽は拾わず、そのまま鉢を置いた。最初から自分だけの場所ではない。
朝になれば、通路を歩く靴音も聞こえるだろう。砂羽はその近さを含めて、鍵を回す。
砂羽は緑の札を鍵から外し、鉢植えの支柱へ結んだ。低い場所を選んだことを、落ちたとは呼ばないために。