三十個目は塗らない
月岡つばめは喫茶「銀杏」で、海外の芸術滞在制作プログラムの応募画面を開いていた。
応募には三か月の渡航が必要だった。選ばれれば、家族が期待する誕生日会も、紹介された相手との食事も断ることになる。まだ受かってもいないのに迷惑をかける気がして、つばめは応募そのものを隠していた。
締切は、二十九歳最後の日の深夜零時だった。
家族のグループには、明日の誕生日を祝うメッセージが先に届いている。三十歳までに結婚すると思っていた、そろそろ落ち着く頃だね、と悪気のない言葉が並ぶ。つばめはそれに返す、安心させる文章ばかり考えて、肝心の志望動機を一行も書けずにいた。
店主が置いた深緑のカップには、金色の星が並んでいた。数えると二十九個。最後の星の隣には、同じ大きさの丸い余白がある。
一つ剥げたのかと思い、つばめが指で触れると、そこだけ釉薬に傷がない。最初から何も描かれていなかったらしい。
店主はカップを手に取り、細い筆を出した。金を塗り足すのかと思ったが、筆先で持ち手の小さな欠けへ透明な保護剤を置いただけだった。丸い余白には触れない。乾くまで、星のない場所を上にしてカップを置いた。
二十九個で未完成なのか、二十九個で完成なのか。決める印はどこにもなかった。
つばめは家族への返信を閉じ、応募画面へ戻った。
志望動機には、三十歳までに何を達成したかではなく、現地で何を作りたいかを書く。古い団地の窓を撮ること。住人の声を短い文章にすること。帰国後の展示場所は未定であること。
会計で店主は誕生日を知らないまま、ポイントカードへ二十九個目の印を押した。次の欄は空白だった。つばめはカードを受け取り、その空白へ予定を書き込まなかった。
二十三時五十七分、応募資料を添付する。家族への返事は〈ありがとう。明日は制作して過ごします〉だけにした。
二十三時五十九分、送信を押す。
画面に受付番号が出たとき、店主は乾いたカップを棚へ戻した。三十個目の星は、最後まで塗られなかった。