上映前の空席
十八時五十分。久慈尚人は映画館のロビーで、篠宮京香へ送った。
〈俺はE列七番。上映まで十分だけ待つ〉
未読。
尚人の手には、自分の紙券だけがある。隣のE列八番は、京香へモバイル券で送ってあった。財布には、二人が初めて観た映画の半券も残っている。今日の作品は、その監督の新作だった。
一週間前、京香は「少し距離を置きたい」と言った。尚人は最後にもう一度だけ、一緒に映画を観ようと誘った。来ればやり直す。来なければ、終わりにする。口には出さなかったが、七番の券にそう決めさせた。
十八時五十三分。未読。
入場が始まり、客が次々に暗い扉へ吸い込まれていく。京香の姿はない。
十八時五十六分、係員が声をかけた。
「満席で、キャンセル待ちの方が一名いらっしゃいます。ご入場されますか」
尚人はE列七番を見た。京香はいつも通路側の八番を好んだ。自分が泣いたとき先に出られるから、と冗談を言った。
「入りません」
券を待っていた女へ譲る。礼を言われ、代金を渡されそうになったが断った。
十八時五十八分。入場締切のベルが鳴る。
尚人はロビーの端へ寄った。京香に送ったモバイル券は未使用なのだろう。隣が空席なら、自分だけで観ることもできた。けれど一席ぶんの距離を見続ける勇気はなかった。
十八時五十九分、別の係員が劇場内から戻ってきた。
「E列八番のお客様が、七番の方を探していました。十八時四十九分には入場されています。携帯はもう電源を切ったそうです」
尚人の画面が震えた。館内Wi-Fiへ接続した京香のメッセージが、九分遅れで届く。
〈先に中にいる。E列八番。今日は最後じゃなくて、最初から話し直したい〉
送信時刻は十八時五十分。尚人の言葉が届いたとき、京香の携帯はすでに暗くなっていた。未読は欠席ではなく、彼女が約束どおり席に座った印だった。
劇場の扉が閉まり、予告編の低い音が漏れる。いま七番には、尚人から券を受け取った知らない女が座っている。
係員は「事情を話せば、お席を替わっていただけると思います」と言った。
中へ入れば、まだ京香の隣へ戻れる。けれど彼女は、知らない女が七番へ来た瞬間、尚人が別の誰かを選んだと思うかもしれない。
尚人は、初めての映画の半券を財布から出した。あの日の二人は、暗闇なら素直になれた。
十九時。彼は今日のE列七番の控えを半分に破り、出口の回収箱へ入れた。