九十九点九の小説

柳生田馨は、三十年かけて一冊の小説を書いた。

芸術統治AI〈ミューズ・ゼロ〉の採点は、九十九・九点だった。百点未満の本は、市民の判断精度を下げるとして流通できない。書店には千冊あるように見えて、どれも読後感まで事前に保証されていた。文章、構成、独創性、倫理性は満点。ただ一か所、主人公が合理的な避難経路を捨て、死にかけた姉を探しに戻る場面が減点された。

〈当該行動は読者へ非最適判断を推奨します。修正後、出版を許可します〉

馨は、その場面だけ直せなかった。姉は炎の中へ戻る前、「すぐ帰る」と笑った。馨はその嘘だけを、合理的な台詞へ直せなかった。幼いころ火事があり、姉は彼を探しに戻って死んだ。合理的ではなかった。だからこそ、彼は生きていた。

出版社は、姉を救助AIに置き換えれば満点になると提案した。馨は断り、原稿を持ち帰った。

その夜、彼は三十年の推敲を逆向きに始めた。伏線を一つ消し、比喩を過剰にし、脇役へ不要な朝食を食べさせた。主人公は道に迷い、姉を見つけられず、それでも戻った。

点数は六十三点になった。

出版は禁止。原稿データは翌朝、自動削除される。

馨は古い印刷機を借り、夜通し二十部を刷った。綴じ方は曲がり、頁番号も二か所間違えた。十九部は検査で没収されたが、一部だけ、配達員の鞄へ紛れた。

半年後、馨の家へ薄汚れた本が返ってきた。余白に鉛筆で書かれていた。

〈ここで戻るのは馬鹿だと思った。でも、戻ってくれて嬉しかった〉

署名はなかった。

馨はその一行を読んで、初めて自分の小説が完成したと思った。読者と会うことはなかったが、余白の字を写して机に貼った。次に迷ったときの採点基準にした。点数は書かなかった。

彼は作家登録を失い、その後は市場の片隅で手刷り本を交換した。点数の低い詩、結末のない童話、誰にも役立たない日記。

完璧な物語は、誰も間違えさせない。馨の人生を変えたのは、たった一人へ、間違った道を戻る自由を渡せた不完全な一冊だった。