予備の椅子

市民オーケストラの公開リハーサルに、古い指揮棒を持った男が来た。真壁遼市。客席の端に置かれた予備椅子へ座る。

若い常任指揮者は、男が楽譜へ書き込みをするのを見つけた。

男は開演前から、空調の音、客席の吸音幕、舞台の高さを確かめていた。オーボエ奏者が欠席していることにも最初に気づき、空いた旋律をクラリネットへ移す案を書いた。常任指揮者は「市民楽団は細部より勢いだ」と紙を破り、スポンサーのロゴが客席からよく見える位置だけを何度も直した。舞台袖には、十年前から匿名の寄付者名を示す『M・R』の銘板があった。

男は銘板には目を向けず、楽団員の椅子の脚を一つ直した。音を出す前の仕事ほど軽く見られる、と言う。常任指揮者は、その姿を用務員と間違え、譜面台まで運ばせた。

「関係者席です。音楽教室の見学なら二階へ」

真壁は第二楽章の一節を示した。

「チェロを一拍待たせると、ホールの残響と重なります」

「古い解釈ですね。今は速さが評価される」

指揮者は書き込みのある楽譜を閉じ、案内係に男を退場させるよう頼んだ。私は第二チェロで、実際に低音が濁っていることを感じていた。休憩中に一拍遅らせて弾くと、響きがきれいにほどけた。

指揮者は私を名指しし、次回公演から外すと言った。

「無名の老人の助言で統率を乱す奏者はいらない」

真壁は私に謝らず、古い指揮棒を手渡した。

「君の耳は合っている。椅子を離れる必要はない」

再開直前、財団理事と世界ツアーの招聘担当者がホールへ入ってきた。常任指揮者は愛想よく駆け寄り、海外公演の選考を始めようと提案した。

招聘担当者は客席の端を指す。

「選考責任者はすでに聴いておられます」

男が予備椅子から立つ。理事全員が頭を下げた。

「真壁遼市マエストロ。国際音楽祭の芸術総監督であり、本楽団へ十年間助成してきた財団の新理事長です」

真壁は私から指揮棒を受け取り、指揮台に置いた。

「まず一拍、耳を持つ人間が指揮台に立てるか審査しましょう」