予備名字管理部
結婚や離婚で名字を変える予定の社員は、予備名字管理部へ二枚の名札を提出する。現在の名字と、次に使う名字。手続きが終わるまで両方を保管し、変更が中止になった場合は未来の名札を月末までに返す。裏面を見てはいけない。管理部の担当者も保管庫も誰も知らなかったが、婚姻届を書く前から新しい名札は机へ届いた。
広告代理店の槙野は、婚約者の名字を選ぶつもりだった。彼女は一人娘で、家の小さな印刷所を継ぐ。槙野の家族は反対したが、彼は気にしなかった。名字が変わることより、二人で新しい名刺を作るほうが楽しみだった。
机には〈槙野〉と〈相生〉の名札が二枚届いた。相生の文字はまだ塗料が柔らかく、指で触れるとわずかに沈んだ。
結婚式の二か月前、地方支社への転勤辞令が出た。昇進を伴う。槙野は印刷所を畳んで一緒に来ればいいと言った。婚約者は返事をせず、翌週、指輪と式場の資料を返した。
「私の名字が欲しかったんじゃなくて、都合のいい未来が欲しかったんだね」
婚姻手続きは中止になった。規則どおり、相生の名札を月末までに返さなければならない。
槙野は机の引き出しへ入れたまま働いた。転勤先の席次表には、すでに〈相生主任〉と印刷されていた。人事に訂正を頼むと、「予備名字の決定は管理部の所管です」と言われた。
月末の夜、廊下の突き当たりに細い返却口が開いた。槙野は名札を布で包み、裏を見ないよう差し入れた。中から印刷機が紙を送る音がした。
翌朝、席次表は〈槙野主任〉へ直っていた。だが机の現在名札から「槙」の字だけが薄くなっている。同僚は彼を「野主任」と呼び、誰も不自然に思わなかった。
昼、元婚約者から印刷所を閉めると短い連絡が来た。槙野は電話をかけたが、番号は使われていなかった。相生という名字を社内検索すると、予備名字管理部の担当者として一件だけ表示された。内線欄は空白だった。
月末を過ぎた名札は取り戻せない。槙野は規則を守り、問い合わせなかった。
転勤初日、彼のデスクに新品の名刺が百枚届いた。名字の場所は四角く切り抜かれ、向こう側が見える。箱の底には漆塗りの細い破片が一本あった。
光へかざすと、破片の中に〈相生〉の二文字が泳いでいた。二文字の間には、返した指輪より小さな金色の輪が挟まり、名刺を一枚通すたび、誰かの名字を静かに削り取った。