五時の皿
江波戸亜澄は、午後五時きっかりに、隣室の猫へ夕飯を出すことになっていた。
飼い主だった女性は、緩和病棟へ移る前、亜澄へ合鍵と音声メッセージを渡した。その後、猫の引き取り先が決まり、今日の五時半に迎えが来る。玄関には引き取り用の青いキャリーケースが置かれ、毛布だけが先に入っている。亜澄が餌を出すのは、これが最後だった。
自分の部屋とは壁一枚なのに、時計の音も床の軋み方も違う。隣室へ入ると、三毛猫は玄関まで来たが、鳴かずに台所へ向かった。餌の缶は三種類ある。亜澄は音声を再生する。
『夕方は銀色の缶、半分。緑は朝。金色は嫌いなくせに、たまに食べる』
銀色の缶を開けると、猫が足元へ体を擦りつけた。
『汁を先にお皿へ。身はフォークで少し崩す。大きいと端へ出すから』
飼い主の声は、説明するたび猫の名前を呼びそうになり、呼ばない。録音を聞かせると探すから、と病室で言っていた。亜澄も名前を口にしないまま、白い皿へ汁を落とした。
猫はすぐ顔を寄せたが、まだ、と手で止める。身を半分だけ載せ、フォークの背で押す。大きな塊を崩すと、魚の匂いが狭い台所へ広がった。
音声の途中で飼い主は缶の開け方を言い直し、『切り口で指を切らないで』と付け足す。亜澄は缶の蓋を内側へ折り、流しの端へ置いた。
『薬はもう入れなくていい。水は右の器。左は飲まないけど、片づけると怒る』
右の器の水を替える。左の古い器は、空のまま残した。音声の向こうで、猫が一度だけ鳴いている。今、足元にいる猫は耳を立て、スマートフォンへ顔を向けた。
亜澄は音量を一つ下げた。
最後に、銀色の缶をラップで包み、冷蔵庫の手前へ置く。引き取り先へ伝える付箋に「夕方、残り半分」と書いた。
時計の長針が六を指す前に、亜澄は白い皿をいつもの壁際へ置いた。皿の縁を壁から指二本ぶん離す。飼い主が床に貼った薄いテープの印へ底を合わせ、手を離す。三毛猫は迷わず近づき、崩した身の端から食べ始めた。