仮面の血は脈を打たない

紅仮面の夜会で、聖女ソニアが悲鳴を上げて仮面を外した。

 頬から鮮血が流れ、彼女は向かいにいたアナスタシアの短剣型扇を指さす。

「すれ違いざまに斬られました。妃の座を奪われると思ったのでしょう」

 婚約者セバスチャンは扇を奪い、アナスタシアへ突きつけた。

「聖女の顔を傷つけた罪は重い。ブレイヴ家との婚約を破棄し、社交界から追放する」

 アナスタシアは赤い筋を見つめた。斬った感触はなかった。短剣型の扇には刃さえないと、婚約者なら知っていたはずだ。だが彼は、彼女の言葉より派手な血を選んだ。胸に刺さったものを隠し、彼女は一人だけ呼ぶ。

「宮廷外科医タチアナ。《脈色試薬》を」

 深紫のドレスを着た女医が進み、硝子棒の先へ銀色の液を一滴だけ載せた。生きた血へ触れれば赤く脈打ち、舞台用の染料なら紫へ固まる試薬である。

 タチアナがソニアの頬へ棒を寄せる。

 液は一度も脈打たず、鮮やかな紫の結晶になった。流れていたのは竜苺の舞台染料で、皮膚には傷ひとつない。紫の結晶は頬からぽろりと落ち、床で乾いた音を立てた。

「血は心臓に合わせて揺れます。これは拍手に合わせて流すための色です」

 タチアナは硝子棒を折り、検査を終えた。

 ソニアは濡れた頬を袖で拭い、セバスチャンは扇を下ろす。仮面越しにも分かるほど、周囲の表情は冷えていた。

「仮面舞踏会の余興が行き過ぎたのだ。アナスタシア、婚約破棄は撤回する。聖女の名誉のためにも、この場で終わらせよう」

「私の名誉は、終わらせる話ではございません」

 アナスタシアは短剣型扇を取り返し、刃のない骨を開いて見せた。

「殿下は仮面を外す前から、私を悪女と決めておられた。ならば今度は、私があなたの正体を見た番です」

 タチアナが南部救護団の白章を掌へ置き、手を差し出した。

「戦地では、偽物の血に騒ぐ暇がありません。本当に傷ついた人を救う手が、もう一つ必要です」

 アナスタシアはセバスチャンに背を向け、紫の結晶を踏み砕かずに越え、タチアナの手を取った。