余白の署名

雨宮佳寿の新作小説が百万部を超えると、鷹司正昭編集部長はテレビで「作者の才能を私が引き出した」と語った。

担当編集の蓑輪綾映は、収録スタジオの外で次回作の資料を抱えていた。三年かけて構成を整え、書けなくなった佳寿のもとへ毎週通ったのは綾映だ。鷹司が原稿を読んだのは刊行会議の前夜だけだった。

番組の生放送中、司会者が最終頁を大写しにした。そこには頁番号だけで、本文がない。

佳寿が鷹司へ尋ねた。

「この一枚を残した理由、覚えていますか」

鷹司はカメラへ笑った。

「読者に結末を委ねる、余韻の演出です」

「違います」

佳寿の声は静かだった。

綾映がスタジオへ呼ばれた。彼女は、白紙は結末のあとに置いた呼吸だと答えた。物語では主人公が長年聞けなかった海の音を最後に聞く。文字を置けば読者の頭の中の波音を邪魔するため、印刷所へ頼んで一枚だけ残した。電子版にも、頁を送る指の時間に合わせた無音を入れた。

佳寿は頷いた。

「私が削るのを怖がった二十頁を、蓑輪さんは一緒に削ってくれた。その代わり、この一枚を守ってくれました」

鷹司が割って入った。

「担当者を指導し、作品全体を決裁したのは私です」

佳寿はテーブルへ赤字原稿を置いた。鷹司の書き込みは、題名を流行語へ変えろという一行だけ。綾映の付箋は数百枚あり、どれも答えを押しつけず、作者へ問いを返していた。

佳寿は生放送のカメラを見た。

「私は鷹司さんと本を作っていません。蓑輪さんと作っています。次の三作は、彼女が責任編集でなければ他社へ移ります」

出版社社長から番組中に連絡が入り、司会者が読み上げた。

「蓑輪綾映氏を本日付で文芸編集長に任命。雨宮作品の全権限を付与し、鷹司氏を担当および決裁系統から外す」

綾映へ次回作の契約書が渡される。署名欄の次には、あの白紙と同じ余白があった。

佳寿がそこへ一言だけ書いた。

《この本を作る人――蓑輪綾映》

生放送の画面に映った瞬間、鷹司が語るはずだった手柄の続きは、永遠に白紙になった。