借りたままの声

雁金透真は、朗読大会のために一冊の詩集を借りた。

貸してくれたのは、放送部の音響係をしている同級生だった。彼女は人前で読まない。マイクの音量を調整し、録音を切り、いつもガラスの向こうにいる。

詩集には、鉛筆の印がびっしりついていた。

斜線は息を吸う場所。丸は母音を伸ばす場所。言葉の上には小さな矢印があり、声を上げるか下げるかが書かれている。

「これ、全部自分で?」

「昔、朗読をやってたから」

「大会出ればいいのに」

「声、小さいし」

透真は放課後、放送室で練習した。

印どおりに息を吸うと、詩が急に読みやすくなった。矢印に従うと、同じ一行でも景色が変わる。

けれど最後の詩だけ、何も書き込みがなかった。

大会で読む予定の作品だった。

「ここ、印ないよ」

「途中でやめたから」

「何で」

「声変だって言われた」

中学のとき、教室で朗読を真似され、それ以来、人前で読まなくなったという。

透真は詩集を閉じた。

「じゃあ、この詩だけ借り方が分からない」

「好きに読めば」

「持ち主の声で読んでみて」

「嫌」

「一行だけ」

彼女は調整卓の前から動かなかった。

透真が最初の一行を読み、その続きを黙って待った。

録音ランプが赤く光っている。

長い沈黙のあと、ガラスの向こうから小さな声が届いた。

二行目。

確かに小さい。少し低く、語尾が揺れる。けれど詩集の鉛筆の印と同じ場所で息をし、言葉が一つずつ丁寧に置かれた。

透真は三行目を読んだ。

彼女が四行目を読む。

最後まで、交互に続けた。

録音を再生すると、二人の声量は揃っていなかった。透真は前へ出すぎ、彼女は遠い。それでも一編の詩になっていた。

大会当日、透真は一人で舞台へ立った。

詩集は借りたまま、演台の上へ開いた。何も書かれていなかった最後の頁には、放課後のあとで二人がつけた息継ぎの印がある。

透真は、自分の行を読んだ。

次の行では、聞こえないほど少し声を落とした。ガラスの向こうの声が入る場所を、空けるためだった。

賞は取れなかった。

詩集を返すと、彼女は最後の頁へ鉛筆で一言だけ書いた。

『もう一度。』

透真はその場で、同じ本をもう一週間借りた。