傘を返す日
閉店十分前のカフェで、結名は紺色の傘をテーブルに置いた。
「三年も借りたままで、ごめん」
向かいの透士は、持ち手の傷を親指でなぞった。
「返すためだけに呼んだ?」
「明日、引っ越すって聞いたから」
「電車で二駅だけど」
「知らなかった」
店員がラストオーダーを告げる。二人とも追加は頼まなかった。
付き合っていた頃、結名は手をつなぐことも、キスも、いつも一拍遅れて受け入れた。嫌いではない。透士に触れられるのが怖いわけでもない。ただ、自分から求める感覚がなかった。
うまく説明できず、「恋人として好きじゃないのかも」と言って別れた。
その後、アセクシュアルという言葉を知った。恋愛感情と性的な惹かれ方が同じではない人もいると知った。それでも好きだとは言えなかった。透士が望んでいた触れ合いまで我慢させる言葉にしたくなかったからだ。
「結婚するの?」
結名が聞く。
「しない。引っ越しは更新の都合」
「そう」
「結名は?」
「しないと思う」
「思う?」
「まだ分からない」
閉店まで七分。外の雨が強くなり、窓を細かく叩いた。
「傘、借りたままにしてたの、わざと?」
「返す理由があると、いつか連絡できると思った」
「今日までしなかったけど」
「だから返すの」
透士は傘を受け取らず、テーブルの上へ戻した。
「別れたあと、俺なりに調べた」
結名は顔を上げた。
「言葉が足りなかったのは、俺も同じ。触れないと愛されてないって決めつけた」
「でも、触れたい気持ちは悪くない」
「うん。なくなってない」
正直な答えに、結名は少し安心した。どちらかが自分を曲げれば戻れる、という話にはしたくなかった。
店内の音楽が止まる。あと三分。
「借りたままだった」
三度目は傘ではなかった。
「あなたの『好き』を。私は同じ形で返せないから、なかったことにした」
「今は?」
「形が違っても、好きだった。今もたぶん」
透士はすぐに答えず、傘を持って立った。
「閉店だって」
「うん」
外へ出ると、透士が紺色の傘を開いた。一本で二人には少し小さい。
「駅まで入る?」
結名は傘の中央へ寄らず、濡れないぎりぎりの端に立った。透士も距離を詰めなかった。
肩の間に雨の細い線を残したまま、二人は同じ駅へ歩いた。傘は返したはずなのに、結名の手は持ち手の下半分を握っていた。