傘を開く前の三歩
羽純は天気予報を一時間ごとに確認した。降水確率、風速、雨雲の位置。予定が濡れないように組み替え、靴も鞄も空模様で決める。準備しておけば、嫌なことは少し減らせる。
検査会社の戸倉小夜は、無口な分析員だった。雨の日も窓を見ず、折り畳み傘を机の横に置くだけ。昼休みに誘っても首を振ることが多く、何を好きなのか誰も知らない。
羽純が終業後の陶芸体験を、雨を理由にキャンセルしようとしていると、小夜がスマートフォンの画面を覗いた。メモ用紙に一文を書く。
『雨が降ったら、傘を開く前に三歩だけ歩く』
「濡れますよ」
小夜は自分の袖についた小さな水滴を見せた。今日もどこかで濡れたらしい。
「風邪をひいたら困るし」
返事はない。三歩で人生が変わるとも言わない。ただ、小夜はキャンセル画面を閉じるでもなく、自席へ戻った。
羽純の予約履歴には、雨で取り消した予定がいくつも残っていた。野外映画、朝市、友人との散歩。行けないほどの雨ではなくても、濡れる可能性が予定全体を失敗に見せた。キャンセルすると安心し、そのあと家で、行かなかった時間だけを眺める。今日の陶芸も、すでにその列に並びかけていた。
退勤時、予報どおり強い雨だった。陶芸教室までは駅から七分。羽純は入口の屋根の下で傘を開き、まっすぐ帰るつもりだった。
メモを思い出す。濡れるとわかっていて歩く意味はない。準備している傘を使わないのは、ただ不合理だ。
それでも、彼女は閉じた傘を持ったまま一歩出た。雨粒が前髪に当たる。二歩目で頬に流れ、三歩目で靴の先が濃くなる。
たった三歩。予想どおり濡れた。けれど、濡れた後の自分は、濡れる前ほど雨を怖がっていなかった。
羽純は傘を開く。駅へ向かう道と、陶芸教室へ向かう道は最初の角まで同じだった。角で立ち止まり、キャンセル期限を過ぎた画面を見る。
明日の予定は変わらない。靴は乾かす必要がある。それでも彼女は駅側へ曲がらず、雨の向こうに小さく灯る教室の看板へ歩き出した。