傷は昨日からあった

城戸雪乃の最後の貸出返却作業で、小さな彫刻の肩に傷が見つかった。

海外展から戻ったばかり。運送担当は、梱包前にはなかったと言い、受入れをした後輩は、到着時の状態報告へ〈異常なし〉と書いている。修復費と保険の責任が、どちらかへ向こうとしていた。運送担当の若い女性は、今回の請求が確定すれば契約更新に響くと聞かされ、何度も梱包時の写真を探していた。

雪乃は彫刻へ触れず、昨日撮影した写真を開いた。正面写真では、照明の反射に傷が紛れて見えない。白い石肌へ正面から光を当てると、浅い線だけが作品の艶に溶ける。記録用の写真が、傷を隠す照明になっていた。けれど別角度の一枚を拡大すると、細い白線がすでに肩を横切っていた。撮影時刻は開梱から三分後で、運送担当が作品に触れる前だ。反射を落とすと、線の端まで確かに続いている。

「昨日からありました」

後輩の顔が青くなる。雪乃は状態報告を責めなかった。撮影台のライトが正面固定で、浅い傷が消える角度になっていた。写真を撮った人が変わっても、同じことが起きる。

館長は、貸出先へ責任を求められなくなるから、昨日の写真を参考扱いにしようと言った。

「記録を選んで責任を作ることはできません」

雪乃は受入れ報告を訂正し、傷が確認できる写真と撮影時刻を添えた。運送担当への請求を止め、貸出先と共同で過去の状態記録を確認する。後輩には、正面、左右、斜光の四方向で撮り、確認者が写真へ印を付ける手順を一緒に作ってもらった。

貸出先から届いた古い記録にも、同じ位置へ薄い線が写っていた。原因の特定には時間がかかるが、少なくとも昨日の誰かへ責任を押しつける話ではなくなった。彫刻は修復室へ運ばれた。傷そのものは消えていない。それでも、誰か一人の不注意として閉じられることはなかった。

来週から雪乃は、美術品保存の工房で見習いとして働く。博物館の正規職員から期限付きの職へ移るため、周囲にはもったいないと言われた。雪乃自身も、肩書を手放す怖さを抱えていた。

最後の状態報告を提出し、工房から届いた初日の作業予定を開く。そこには〈調査記録の作成〉が、修復と同じ一日の業務として組まれていた。

雪乃は見習い欄へ自分の名を入力し、参加を確定した。

傷を隠さず見る仕事を、もっと近くで学ぶために。