六〇五号室の歯ブラシ

午前九時五十分。木暮凛太郎は、浜松駅前のホテル六〇五号室で荷物を閉じた。東京と大阪の間で働く瀬尾美羽とは、月に一度ここで会った。チェックアウトは十時だった。

洗面台には、ホテルが預かってくれていた二本の歯ブラシがある。凛太郎は青、美羽は白。初めて泊まった朝、美羽が油性ペンで柄に小さな家を描いた。それ以来、部屋が変わってもフロントから二本を受け取り、「帰ってきた」と笑った。窓から新幹線が見えるたび、どちらの列車が先に来るか当て、負けたほうが翌月の予約を取った。

昨夜、美羽は来なかった。

〈もう六〇五には行かない〉

午前一時に届いた一文だけ。電話は留守番電話になった。三か月前から、美羽は浜松で会う回数を減らそうと言っていた。凛太郎は東京へ来てほしいと頼み、美羽は仕事を理由に答えなかった。

九時五十三分、凛太郎は白い歯ブラシを袋へ入れ、フロントへ下りた。

「今後のお預かりは不要ですか」

「二本とも処分してください」

会員カードも返す。十二回分の宿泊印が並び、次回は無料になるところだった。

係員が精算していると、美羽から着信した。

「部屋、まだいる?」

「もう出た」

「フロントから、封筒もらった?」

「何も聞いてない」

「昨日、預けたの」

係員が引継ぎ簿を確認し、奥の保管庫から薄い封筒を持ってきた。中には東京の会社の採用通知と、凛太郎の部屋から二駅先にある賃貸物件の鍵。裏には〈もう六〇五には行かない。同じ家へ帰りたい〉と書かれている。

「どうして来なかった」

「大阪の退職手続きが終わらなかった。朝一の新幹線で向かってる」

到着は十時十二分。あと十四分だった。

凛太郎は係員へ歯ブラシを返してほしいと言った。しかし白い一本は、すでに清掃用の廃棄袋へ入れられ、ほかのごみと混ざっていた。

美羽が電話の向こうで「待ってて」と言う。

ロビーの時計が十時を示す。凛太郎は新しい鍵を掌で転がした。昨夜の一文だけで、彼女が描いた家を捨てさせた自分が、その家へ先に入っていいのか分からない。

彼は六〇五号室のカードキーを返却箱へ落とし、美羽とは反対側の出口からホテルを出た。