六百分の印鑑

廃プラスチックを燃料へ戻す触媒特許の売却会議で、鬼沢翠は知財部の新任事務員として契約原本を点検していた。発明者とされた大学研究者二人は、すでに権利譲渡へ同意したことになっている。

二通の譲渡契約書には、それぞれ自筆署名と実印があった。法務部長は「原本確認済み」と押印し、売却額八十億円の決裁を急がせた。

翠は印影を六百分解像度で読み込んだ。二人の実印は別物なのに、赤い円の外側に同じ三つの黒点がある。署名の周囲にも、同じ位置に灰色の紙くずが写っていた。

それは印鑑を押した跡ではない。以前の秘密保持契約をスキャンし、署名と印影をまとめて切り抜いた画像だった。

法務部長は、複合機の汚れが同じだけだと説明した。

翠は二通を斜光で見せた。本物の朱肉なら紙の繊維へ染み込み、裏面にもわずかに色が出る。譲渡契約の赤は表面のトナーで、裏は真っ白。拡大すると輪郭が六百分解像度の四角い画素になっている。

大学へ確認すると、一人は海外滞在中、もう一人は契約内容を知らなかった。二人とも売却への同意を否定した。

部長は翠へ、原本確認印を押した自分の責任になると訴え、黙るよう頼んだ。

翠は「原本確認済」の印影も読み込んだ。それさえ別の稟議書から貼られた画像で、同じ黒点が四つあった。

「確認した人まで、画像だったんですね」

翠は二人の研究者とオンラインでつなぎ、画面越しに本人確認を行った。一人は、触媒の基本構造を考案した大学院生の名も出願から消されていると話した。偽造された譲渡書は、権利を移すためだけでなく、三人目の発明者を隠す蓋でもあった。売却先の監査役が全原本の回収を命じた。

法務部長は、スキャン画像の元になった秘密保持契約を廃棄したと答えた。だが文書管理番号から倉庫原本が見つかり、二人の署名と黒点が完全に重なった。偽物を作るために使われた本物まで、証拠として会議室へ戻ってきた。

売却先の代表が契約書を証拠袋へ入れた。八十億円の決裁印は朱肉へ触れず、六百分に拡大された偽物の前で止まった。