再生しない遺言
父の通夜が終わった二十三時二十九分、香月悠臣の携帯に通知が届いた。
〈五十六歳の君より。二十三時四十分までに、父の音声を再生せず削除しろ〉
留守番電話には一件、死亡時刻の三分前に録音された音声がある。机の上には父の割れた懐中時計。妹が座敷の向こうから言った。
「聞くなら、一緒に聞こう」
悠臣は通知を無視して再生した。父が「会社は――」と言ったところで音が途切れ、懐中時計の針が逆に回った。
〈再生せず削除しろ〉
「聞くなら、一緒に聞こう」
二度目はイヤホンで聞いた。三度目は音声を複製した。差分を試しても、「会社は」の先へ進む前に二十三時二十九分へ戻る。削除しても、相続書類へ署名しなければ戻った。
未来の自分が成功条件を送る。
〈音声を完全削除し、単独承継の同意書へ署名〉
父の会社は負債を抱えているが、一つだけ価値の高い土地を持つ。悠臣が単独で継ぎ、会社を清算すれば、その土地を手にできる。未来の写真では、五十六歳の悠臣が高層マンションの最上階に住んでいた。妹とは二十年以上会っていない。
通知の添付資料に、音声解析の断片が残っていた。
〈会社は、お前一人のものじゃ――〉
続きは分からない。社員のものか、妹のものか、借金を背負わせたくないという意味か。未来の自分は、分からないまま削除したから成功したのだ。
十二回目、妹が言う。
「聞くなら、一緒に聞こう」
悠臣は携帯を伏せた。
「聞かない」
妹が息をのむ。悠臣は音声を再生せず、携帯ごと初期化した。次に単独承継の同意書を破り、家庭裁判所の相続放棄申述書を送信する。会社も土地も、父が何を託そうとしたか知る権利も手放す。
未来から通知が三度来た。
〈声だけは残せ〉
〈土地を取れば負債を払える〉
〈答えを知らずに生きるのか〉
悠臣は割れた懐中時計の竜頭を押した。
「答えを使って、誰かを負かすよりは」
二十三時四十分。音声は消え、相続放棄の受付番号が表示された。時間は戻らない。
妹は何も尋ねず、割れた懐中時計を悠臣の前へ滑らせた。針は止まったままだったが、もう逆には回らなかった。