冷めてから甘い豆
私が三門薫を知ったのは、彼女が一杯のコーヒーを捨てた日だ。
私は全国カフェチェーンの仕入れ担当で、大手焙煎会社の試飲室にいた。香りは華やかで、熱いうちは悪くなかった。だが薫は十分待ち、冷めた液を口にすると首を振った。
「後味に焦げた殻が残ります。このロットは使えません」
営業本部長の赤松久典は、私の前で彼女を叱った。
「基準値は合格だ。高い豆を捨てるだけの給料泥棒は、今日で辞めてもらう」
薫は翌週、会社を去った。赤松は自動焙煎の設定を統一し、廃棄率が下がったと報告した。
最初の納品は問題なかった。けれど季節が変わると、同じ温度で焼いた豆に焦げと生焼けが混ざった。店舗ではミルクと砂糖を増やして隠した。ブラックを頼む客が減り、私のもとへ「店ごとに味が違う」という記録が積み上がった。
赤松は抽出担当の教育不足だと言った。私は契約更新を直ちに保留し、全店の豆を抜き打ちで回収した。
半年後、小さな焙煎所の試飲会で薫と再会した。彼女は市場で値のつかなかった山の豆を出した。粒が不揃いで、熱いうちは地味だった。
十分後、冷めた液から杏のような甘さが現れた。
薫は豆の大きさごとに焙煎を分け、最後に混ぜていた。機械を否定せず、豆が変わるたび設定の理由を若い職人へ教えていた。
国際品評会のブラインド審査で、その豆は最高得点を取った。買付価格は前年の十倍になったが、世界の業者が列を作った。
最終契約会で、赤松は従来品を大幅値引きすると申し出た。
私は二つのカップを並べ、十分待った。赤松のコーヒーには苦みだけが残り、薫の一杯は冷めてから甘くなった。
「全国千二百店の新しい基準は、こちらです」
私は薫の焙煎所との独占契約へ署名した。
赤松がレシピの買い取りを口にすると、私は契約書の品質責任者欄を示した。
「買うのは温度表ではありません。冷めるまで味を見る三門さんです」
旧契約の終了通知が送信され、薫の焙煎所には新工場の前払金が振り込まれた。