冷蔵庫の休止音
神谷の部屋では、二台の冷蔵庫が聞こえる。
一台は自分の台所。もう一台は壁の向こう。古い建物なので、隣のモーターが回り始めると、ベッドの枠までかすかに震える。
ぶうん、とこちらが鳴る。
少し遅れて、向こうが鳴る。
どちらかが止まり、もう片方だけが残る。午前二時を過ぎると、その繰り返しが夜の大半を占めた。
神谷は無音が苦手だった。
帰宅するとすぐ音声番組を流し、風呂では音楽、眠るときは雨音のアプリを使った。静かになると、昼間に言い返せなかった言葉や、送らなかったメッセージが順番に浮かぶからだ。
今夜は本物の雨が降っていた。
それでも神谷は枕元のスピーカーから、別の雨音を流していた。一定に整えられた水音の下で、冷蔵庫が二台とも回っている。部屋には音が多すぎるのに、孤独だけは薄まらなかった。
配信者の穏やかな声は、もう内容が耳へ入っていなかった。笑う場所で笑い、間を埋め、神谷が考えなくて済むように流れ続ける。けれどイヤホンを外した耳は、長く音を詰め込まれたあとみたいに熱かった。
午前二時半、隣の冷蔵庫が止まった。
続いて自分の冷蔵庫も止まる。二台のモーターが同時に黙り、部屋が急に深くなった。
神谷は反射的にスピーカーの音量を上げようとした。けれど窓の外から、本物の雨が聞こえた。樋を流れる太い音、手すりへ落ちる細い音、遠くを通る車の水しぶき。整っていない雨だった。
スピーカーを止めた。
静けさの中には、何もないのではなく、近い雨と遠い雨があった。壁の向こうで、誰かが冷蔵庫の扉を開けた。瓶が触れ、扉が閉まる。短い生活音のあと、向こうはまた静かになる。
神谷は目を閉じた。
昼間の言葉が一つ浮かび、消えずに残った。追い払おうとはしなかった。雨が強くなれば聞こえにくくなり、弱くなればまた戻る。その程度でよかった。
やがて自分の冷蔵庫が先に動き出した。少し遅れて隣も回り始める。
神谷はスピーカーを再開しなかった。次に二台が止まるまで、整っていない夜をそのまま聞いてみることにした。